1965.Newyork Chelsea-現代美術の聖地に起きたことの記録

  

1965.Newyork Chelsea-現代美術の聖地に起きたこと

    ー 後期抽象表現主義の画家たち -

  • 中 嶋 恵 樹: 1987年に世界を目指して日本を出発。アジアを中心に世界各地を音楽のフィールドワークの旅としている。メインの楽器はギター。その他バリ島の竹笛「スーリン」、インドの楽器「シタール」、ギリシャの弦楽器「ブズーキ」、その他琴シンセサイザーなどを奏でるマルチプレーヤー。ジャズ、ロック、クラシックなどあらゆるジャンルを融合したフュージョンであると同時に無国籍的なワールドトランスミュージック。
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  • 竹 内 空 豆:2010年、いきなりダンスに開眼し自己流で踊り始める。ソラマメダンスと称して音楽家やパフォーマーたちとイベントを企画。ディレクターとしても活動。昨年は 当美術館で「ヨミの星」を開催。
    今回も「キレキレ」の踊りに驚かされた。

  •        1965展に                八覚 正大
  •  本年最後の宇フォーラムでの展覧会は、実は気合いの入った「取り」とも言えるものだった(ただ寒さの襲来による美術館そのものの冷え込みは、少し辛くはあったが)。
     その内容は館長力作の解説文に譲り、また細部の正確なコメントは控えるとして、師走を駆け抜けたこの美術展に何がしかの感想をお返ししたいと思う。
     若かりし平松輝子氏が、二枚の大作の間からその身体を現した写真を以前拝見していた。1960年代半ばのニューヨーク・チェルシーに一年ほど滞在された時のもの、と知らされてもいた。今回はこの写真に象徴される〈ある出現〉を感じさせる展覧会だったとも言える。 
     小学校の図画工作の先生だった輝子氏は、その作品を金光松美氏に認められ(実際氏は国立の家まで訪ねて来られ、渡米へ誘われたとのこと)そこから、世界に羽ばたいていくのだ。金光氏に借りたマンションの一室の書斎、チェルシーの街並、若き日の草間彌生と同じテーブルを囲み談笑する姿など断片ながら当時の熱気を感じさせるものだ。
     今回、12月5日(火)の夜、当美術館で行われた竹内空豆氏らによる踊りと音楽のパフォーマンスは後半壁に大きく映された上記の写真などを背景に行われ、踊る身体のシルエットが投影されることにより、当時の〈いまここ〉が蘇らされた感があり、良きオマージュになったと思われる。
     さて、今回の絵画についての雑感を述べれば、平松輝子氏の滾るような形(和紙がコラージュされた)と滲む色彩の作品群だ。これらは既に多く見させてもらって来た。どの作品もインパクトはかなりだが、チェルシーで出現した?二枚のうちの作者の左のもの「一万の石の雨」(1966)はやはり印象深い。今回作家の知人K氏も来館し一緒に拝見したが、霊感の強い彼は、絵の中に手や足や、幾つもの身体、顔、動物……を見出して行った。これは輝子氏の幼少体験、関東大震災時の死者たちの生々しい記憶の、本人の意図を超えて噴出した〈原風景〉なのかもしれない。
     一連の作品群を見た後で、今回私は「森」と題した暗色のトーンのものになぜか惹かれた。その松の幹の表皮の様な形、その重厚でありつつ落ち着きを放つ構成に、過去を包みそこからまた立ち上がろうとする心の土台のような安定を感じたのだ。
     他にはサム・フランシスの「For Thirteen」(13歳のために?)の抽象形と色彩の妙に心打たれた。作画のストーリーは分からないが、13歳=中学一年生と括られてしまう発達
     段階にあって、その形と心の弾ける命を見事に、しかもバランス良く表していると感じられたのだ。それから金光氏のユーモア(ただし、今回はない図録の中の作品群は鮮烈な色彩を放つものも魅力だ)、ロバート・ブラウンの箱の画柄になったポール・ジェンキンスの版画、その他マーク・ロスコの小品まであり、当時を知る方たちがもっと集まり、過去になった聖地の情熱を〈いまここ〉に蘇らせることによって、芸術に賭けた人間たちの思いがさらに可視化しても良かったと思われる。そのためにこそ、我々は批評の言葉を貯め、人間の関係を繋ぎ直す智慧を有効に使いたいと思うのだ。

  • 妙 香: バレエ、フラ、神道の奉納の舞など自然とともに響きあいながら、命の感謝と喜びをささげる。巫女を思わせる清楚の美。

  •  今回、展覧会に合わせて急遽下記のイベントを開いた。
    ●  響きの森 –forest in vibration-
               12月5日(火)       中嶋恵樹(ギター・竹笛etc)
                           妙香(舞)、竹内空豆(舞踏)
  •  平松輝子の作品の飾られている会場で、音楽と舞踏のミニコンサートを開いた。1965年アメリカチェルシーの写真をスライドショー化して奥の壁一杯にプロジェクターで投射。その前で舞うと白の服に絵の色が。 今回、簡単なリハーサルで一時間半を一気に演奏。 一言、すごかった。
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  •  「今回の展示は、当時の作品と、金光松美、ポール・ジェンキンス、サム・フランシス、ロバート・マザーウェル、マーク・ロスコの作品を展示、紹介する。
     1965年はアメリカ美術の転換点でもあった。当時の後期抽象表現主義の彼らはその後、ポップアートの荒波にさらされることになる。しかし、同時にアクリル絵の具という水性絵の具の登場は、シミ派、ポストペインタリーアブストラクション(脱絵画抽象)、カラーフィールドペインティングなどを生み出した。
     当時のニューヨークはベトナムとの戦争の中、反戦運動とともに薬物に蝕まれた時代だった。金光ら多くの画家たちは新天地を求めてロスアンゼルスに移る。まさにアメリカそのものの転換点だった。
     1965年は平松輝子がニューヨーク、チェルシーにわたり、66年1月のマジソンアベニューのAMサックス画廊の展覧会のために一年間アトリエを借りて制作した年でもある。当時のチェルシーには、ニューヨークスクールの画家たちが集まっていた。デ・クーニング、ジャクソン・ポロック、マーク・ロスコ、ポール・ジェンキンスなどの中にマイク金光がいたが、マイクとはポロックの命名でそのまま通称となった。
     マイクは前年、日本に滞在した時、平松輝子を知り国立の自宅まで立ち寄りニューヨーク行きを勧めた。ところが彼はすでにロスアンゼルスに引っ越すことを決めていたらしい。輝子はチェルシーで様々の画家たちと知り合い助けられたりしながら展覧会をすることができた。
     当時ニューヨークには多くの日本人画家たちが新天地を求めて移住していた。しかしニューヨークの画廊はすべて契約による企画展で日本人が展覧会をすることは簡単ではなく、平松のことを「シンデレラ」と呼ぶ人もいた。確かに、関東大震災で父を亡くし、はるか遠くの岡山の田舎で祖父母により育てられ、東京に移っても町の小学校の先生にすぎなかった平松のデビューはまさにシンデレラ物語。その展覧会は画期的なものだった。西洋と東洋がミックスしたまったく新しい絵画だった。
     当時のニューヨークタイムズのジョン・キャナデイが絶賛したほか、ヘラルドトリビューンなど3紙に好意的に取り上げられた。ジョン・キャナデイは美術評論では論客で辛口で知られていた。彼が絶賛した絵は、和紙にアクリル絵の具をしみこませてコラージュしたもので宗達や光琳などが使った日本画の垂らしこみの技法。水性絵の具が乾かないうちに他の色を重ねて塗り、滲ませる。当然、西洋人などより東洋人の平松の方が上であった。そして驚くことは、その絵「一万の石の雨」が、平松が2歳9ヶ月で遭遇した関東大震災の絵だったことだ。」

  •    Paul・Jenkins. Matusmi・Kanemitsu. Robert・Motherwell. Teruko Hiramatsu 
  •  戦後間もない頃、アメリカの現代美術の聖地、ニューヨークのアートステューデントリーグでは国吉康雄が教壇に立ち、日系アメリカ人の金光松美とポール・ジェンキンスがそろって授業を受けていた。カラーフィールドペインティング、しみ派、ポストペインタリーアートなどが生まれつつあった当時を版画、写真で振り返る。
  • 平松輝子「フォレスト」
  • 当時の摩天楼 
  • 平松輝子「フォレスト」
  • 平松輝子「春の海」
  • 妙香 氏 
  • 空豆 氏
  • 会 場
  • 中嶋恵樹 氏「リハーサル」
  • 空豆 氏
  • 金光松美「自画像」
  • 平松輝子「日輪」
  • ポール・ジェンキンス
  • 金光松美「春」
  • 平松輝子「一万の石の雨」
  • 平松輝子「氷紋」
  • チェルシーで借りた平松輝子のアトリエ
  • 11月26日~12月10日