柴田 美智子 個展 ー猿が家の中に居るー 

  • オープニング・レセプション 7月14日 
  • 7月12日(木)~7月29日 (日) 

2018  緊急避難

2017  『 変容 』

不能「呼び声を発する」 (1999)

不能「船を手に入れる」 (1999)

不能「子を育てる 」(1999)

不能「殺し合う 」(1999)

1999  不能

 1994 『 STORY 』

※ 展覧会の様子がパノラマでご覧になれます

作 品 写 真

会 場 の 様 子























 










  •        キャリアと意図
                     柴田 美智子
     
     10歳の時に手塚治虫の漫画『ビッグX』他を読み漫画家を目指す決意をする。
    その後次第にマンガだけでなく視覚によって伝達する表現形式全般(絵画、彫刻等)に興味を抱くようになった。
     しかし、15歳を過ぎた頃から精神は安定性を失い私の生存自体が大変危機的な状況に陥ることになった。
    日常的に原因の分からない倦怠感を感じ、何事にも意欲がわかなくなり、心は何を見ても漠然とした恐怖、絶望感、強い悲しみ、孤独感、怒りと苛立ちの波に支配されるようになり、漫画家や絵描きとして表現の世界を作り出そうと努力するも作品を完成させることが困難となり、それどころか日常的な生活を維持するのさえ苦痛になってしまった。特に心が苦しめられたのが、現実感の消失である。
     自分の外界の人や物が遠く遠く小さく見え、自分とのかかわりが解らなくなり世界のすべてから生命感が無くなったように感じられるということがしばしば起こったのだ。物自体は見えているのにあまりにリアリティがないために本当に目に見えているという実感がわかなくなることもあった。
     その状態は断続的に続いたが、20歳を過ぎた頃に不思議なことに気づいた。現実の外界の事象がいかにリアリティを失っている時であってもものの輪郭だけを描くと、描かれたものにはリアリティが生まれるということだった。
     本物の卵を見ても現実感はないが、何故かその輪郭だけを描くと、その絵に描かれた卵は愛らしく卵らしかったのだ。
     やがて時間とともに病的な精神状態は徐々に軽減されていき、非現実感も収まってきたので、原因について分析できることが出来るようになった。そして同時に絵画や立体作品などの作品を作り上げることも出来るようになった。
     分析の過程と作品が生まれる過程は重なっている。
     作品を作ることによって私は私の精神の状態とその背景をとらえることが出来るようになったのだ。
     そして分かった主な原因の一つ目は両親の無自覚な精神的暴力にあった。両親は子供を、精神を持った一人の個人として認めることはなかった。
     二つ目の原因は極端に自然が貧しい環境で育ったことにある。1960年代の東京の工業地帯であった江東区の自然は破壊され土・水・大気の汚染は日常生活上、人体に危険なレベルであった。豊かな自然の多様性にほとんど触れることなく子供時代は終わった。
     三つ目の原因は歴史の流れをさかのぼってたどれないよう歴史を分断して教える日本の戦後教育のあり方にある。日本の教育は投下された原爆の責任が誰にあるのか決して教えない。第二次世界大戦の敗戦が今日の社会に具体的にどうつながっているのかを教えず、敗戦の原因も責任も問わない。
     今自分がどういう国に生きているのかを簡単には考えられない人間を作るためのシステムとしての教育が行われているのだ。
     美術学校を卒業した後10年ほど試行錯誤をした結果手に入れた私の作品の作り方は、まず分からない理解できない、それゆえに自己の存在を脅かすものを主体に、それに関連していると思われるイメージを収集する。
     そしてイメージを絵画や立体や音などに写し取る。出来たものはイメージの模型、モデルであるがこれを展示空間に配置する。
     後から気づいたことだが、この方法は箱庭療法と呼ばれる心理療法に構造がよく似ている。箱庭療法ではまず箱という枠があって(私の場合は画廊などの展示空間の制約)そこに患者(クライアント)はあらかじめ医師(セラピスト)が用意したおもちゃや模型を置いて箱庭を完成させる。その庭について医師との語り合いの中で、庭の制作者である患者は自分の無意識や意識を観察して理解するのである。医師との語り合いの主な目的は全体とディテールに隠されたストーリーの発見にある。
     私の制作物もストーリーとの関りがある。もともとストーリーがあってそれに沿って立体や絵画を制作する場合と制作した立体や絵画自体がストーリー性を持っている場合とがある。
     私はストーリーというものそれ自体が一種の模型だと考えている。
     模型とは現実や元の対象とはスケールと情報量が違う複製の造作物のことである。
     ストーリーという模型を絵という模型で作り上げる構造は漫画にも通じるものがある。
     私の制作の方法のルーツは10代~20代のころ気づいた紙の上の輪郭だけの卵にある。
     紙の上の空間という現実とは異なるバーチャルな環境に輪郭だけ、つまり極端に情報量の少ない対象のモデルを再現することで現実と心の回路がつながる―世界に対する親和性を復活させうる―ということにインスパイアされたのである。
     私の制作の目的はまず第一に自分の精神と肉体を病的な荒廃から救うことにあり、次に自分に似た人たちに何らかの心的な充足感を味わってほしいとの望みにある。
     更に具体的に言うと以下のような目的が達成できるかどうかを実験するための作業である。
     ① 生の実感の獲得
     ② 死と再生の儀式の疑似体験
     ③ 子供時代に享受できなかった、外界の自然環境のために枯渇している、体内の自然の修復
     ④ 日本の近・現代史(美術史も含む)の学習


       ●『STORY』と『変容』
     『STORY』は1994年の最初の個展で展示した作品で、10体で構成された1点の作品である。
    テーマは「生と死」である。生については現実に多くの現象に触れることが出来るためとらえやすいように思えるが果たしてどうなのか。死を理解するということは不可能に思える。死は生の対義語ではない。関連性はあるが別の事象としてとらえるべきものである。
     作品は金属製の繊維と麻の繊維とを貼り合わせ編んだり絡めたりしてつかの間の強度を得、アルミを鋳造した骨格をたよりにして立ち上がった形を保っている。一方で顔は落ち、体の一部は欠落し、外部に向かって開きながら、梯子を登るという運動を続けている。最終的には梯子から体全体が落ち運動が止まるまで運動をし続けるのだ。
     生はつかの間の強度と運動の連続によって支えられている。
     『変容』は9体で構成された1点の作品である。上記の『STORY』の続編にあたり2017年の個展で展示した。テーマは「死と再生」である。多くの民族の神話や儀式に登場する死と再生を疑似体験してみたく作り始めたものである。
     ゆっくりと地面に向かって下降してゆき、やがて落下してばらばらに崩壊し地面に染みこんだ体が再結合して立ち上がる様子を作ったもの。
     全ての像が猿の形を模している理由について書くと、いくつかの理由があって全部を書くことはできないが、私が6歳未満のころ、自分は人間にみえるが本当は猿であると空想しながら生きていた時期があったということが一つにはあると思う。また胎児として系統発生の旅路の最終段階で経験したであろう人になる以前の感覚を、憧れを持って呼び戻したいという気持ちもあるのかもしれない。しかしなぜ猿を選ぶのかの決定的な要因は実はあまり意識的なものばかりではない。
     マチエールとして麻など植物の繊維を使うのはマグダレーナ・アバカノヴィッチの、森の奥深さそのものを封じ込めたような麻の作品群に影響を受けたことをあげておく。 

  • ●《柴田美智子 経 歴》

     ■1955 東京都江東区生まれ
     ■1980~1983 美学校 絵画教場.菊畑茂久馬に師事。

  • 【個 展】
     ■1994 日本橋 好文画廊 『廃墟に似た場所』
     ■1997 新宿 ギャラリーフレスカ 『縁をなぞる』
     ■1999 銀座 キーギャラリー 『不能』
     ■2003 銀座 キーギャラリー 『デッサン集:道を歩く猿』
     ■2009 銀座 スパン・アート・ギャラリー 『この世の水』
     ■2010 代々木 GALLERY YOYOGI 『「私達は、一緒よ」』
     ■2011 新宿 眼科画廊『牛に触れる』
     ■2016 武蔵小金井 ギャラリー・ブロッケン
           『遠い物語/近く、すぐそばにある物語』
     ■2017 日本橋兜町 SPCギャラリー『変容』
     ■2018 東京国立 宇フォーラム美術館 『猿が家の中に居る』

     
    【グループ展、他】
     ■2003 亀有 ギャラリーバルコ『カメ3展』
     ■2005 キッコーマンKCCギャラリー
           『キッコーマン 新春亀づくし展』
     ■2006 東松山 丸木美術館『今日の反戦展2006』
     ■2008 新宿 アートコンプレックス・センター
           『ギグメンタ2008-美学校-展』
     ■2009 京橋 キーギャラリー『再会展』
           大阪 海岸通Gallery CASO
           『新しい芸術精神のための曖昧な国境』
           大崎 O美術館 ターナー色彩㈱ 主催
           『ゴールデン・コンペティション入選作品展』
     ■2011 京橋 キーギャラリー『再会展』
           仙台 yutorico.『色を纏う言葉の無い手紙』
     ■2015 大阪日本橋 SUNABA GALLERY『SUNABA動物園』
     ■2017 日本橋 好文画廊『815展 11th』



         
        「猿が家の中に居る」―― 柴田 美智子 個展 
                                八覚 正大

     台風が来て、ようやく空が戻った。七月に入ってあまりの暑さのため、空を見ることができなかった。冷房を掛け続けた部屋に昼も夜も入り込んでいた。それは暑さだけではなく、「熱中症に十分気を付けて下さい、命の危険があります」というマスメディアの繰り返しのアナウンスがあったことにもよる。それが良い悪いではない、事実として我々の意識の左右のされ方に関することである。台風もかなりの強い雨と風をもたらす、しかし熱気もいっしょに吹いてくれた感があり、束の間、雲の流れとその向こうの夏の青空と、深く美しい木々の緑に再会できたのである。
     さて、柴田美智子展である。十匹の猿がそれぞれに梯子を登っている作品。大作である。思いの外、尻尾が長く垂れている。途中のもの、上まで行きかけてでも未知の上部を覗いているもの、落ちて死んでしまったもの、一様に顔面を下に落としている。宇フォーラムにおいても異例のインスタレーションという感じがする。猿が……と名付けられている。でもこれは猿ではない、のかもしれない。(そう……マグリットの絵の中に、部屋の中いっぱいに緑の大きなリンゴが描かれ、「これはリンゴではない」というタイトルが付けられていた)。プラスティックであばらが作られ、その上に布で肉づけされ、確かに猿なのだが、猿が梯子を登りつつあり……猿のごとく。梯子はとある道をドライブしていたら、シックなそれを見つけ、譲ってもらおうと思ったら、「作ってあげるよ」と言われ制作してもらったものと。コラボにもなっているのだ、作りが本格的。落ちてしまった猿のそれに登ってみた。取り立てて何かが変わりはしないものの、身体が浮上して重力を感じた。
     美的な作品群ではない、でも集団で梯子登るという共通の行為をしながら、それぞれに差異が生まれる場、それをここまで創り上げる作者の情熱がどこから湧くのか?!
     振り向くと、尻尾でつり下がる猿たちがまた同じくらいの数浮かんでいる。尻尾で吊るされているのか、己が心身を支えているのか……その主体性の位置はおいておくとして、その奥に死んでしまった猿がいる。それが黒い皮膚を毛羽立たせるかのように数メートル続かせて、ヤッと立ち上がろうとしかけているのだが(しかしまだ両手を付いて下を向いたままだ)――この姿が最もこちらに入ってきた。それは人生を一周したのに、まだ己自身が把握できず、飛び立てない己だ! 一瞬そう共感して過ぎる。
     後は第一室に戻ると、何か小さな教室で、人間、半猿、猿の三種類の子どものいる空間。取っ組み合い殺し合っている二匹の猿、抱いた子どもに食事を与える猿、丸木船の中で立ち上がる猿。部屋の壁には鏡がおかれ、その姿を転写しつつ、反射によってどこまでも奥行きが感じられる構造。
     作者自筆のプロフィール、生育歴を読むと、その思い意図もそれなりに伝わって来る。でも、ここまで展開するエネルギーは……初見の時、シーガルとはだいぶ違う……あっ、アバカノヴィッチかと、かつてみた欧州小国の女流美術家への連想がひらめいた。プロフィールの終わりには、最も影響を受けたらしいその作家の名が書かれていた。余談だが、これらの作品はガレージにまたしばらくは押し込められて眠るらしい。その詰った空間も一見してみたい、アフリカ物のコレクターとして人ごとではないからである。


         柴田 美智子 展
                          宇フォーラム美術館 館長 平松 朝彦

     柴田美智子の作品は私たちの持っているいわゆる美術作品のイメージとは大いに異なる。一言でいえば象徴的な場面を現出させているのであり造形はその手段にすぎない。例えばダビンチの「最期の晩餐」もそうだ。作者のコメントに箱庭療法の言葉もあるが、画廊サイズの箱庭、とも作者はいう。その場面は等身大であり複数の作品が並ぶことにより環境ができ観客はその中で目撃者となる。一つ思い出したのは2014年、ニューヨークのニューミュージアムで開かれたポーランド出身のPawel Althamer展。暗い会場に多くの等身大の人物作品が配置されていて観客はその間を歩き回る。貧しい人が住む家のミニアチュアのモデルもあった。そうした作品を俯瞰したり、体験することにより一つ気が付くことがある。我々の普段の我々の生活も実は同じ実物大のモデルではないかという幻想が。世界を作品として提示している。これは彫刻などと異なる新たなアートのジャンルなのではないか。
    具体的な作品について共通のテーマというかモチーフは「猿」。もちろん単なる猿ではない。人間との対比。あるいは人間の中の猿。ダーウィンは進化論で人間の起源は猿だとした。ちなみに人とチンパンジーのDNAの違いは2% でしかない。二足歩行により脳が進化して大きくなり次第に人間になったといわれる。しかし今、人間は昔自分たちが猿だった事を忘れている。それはタブーなのかもしれない。作品に戻る。
     1994年の「STORY」。9つの約3mの梯子に登る猿たち。一匹は梯子から落ちて地面に横たわっている。よく見ると、梯子の猿も死体であり肋骨が露出している。なぜか顔がお面のようになって地面に落ちている。
     1999年の「不能」シリーズ。「船を手に入れる」「殺しあう」「子を育てる」「呼び声をあげる」。猿たちは一様に火傷を負い、顔は黒く焦げている。まずは、大作「船を手に入れる」。5mはあろうかという土の船に、目はつぶれ背中は焦げた一匹の猿がかがんで乗っている。
     その他、3体の猿。金属の棒で突かれる猿。赤ん坊に金属のスプーンで何かを飲ませようとしている猿。叫ぶ猿。船に乗る猿。そしてその光景は鏡面のステンレスで二重、三重に映る。その鏡にもその光景が映る。何が事実であるのか。たとえば先に絵を描いて、その後、それに合わせた作品が作られたということでもある。
    2017年の「変容」シリーズ。7体の猿が上から降りている。一番奥の下には猿一匹の猿の死体。黒く変色したその猿の毛の部分が4m位続き、末端では新たな猿が立ち上がろうとしている。死と再生、循環、輪廻思想を思わせる。
     2018年の「緊急避難」。人間の子供と猿、さらに右半分猿、左半分が人間の3体が小学校の机と椅子に座っている。人間の子供はうつろなまなざし。
     多くの題材の死体は命と対比される。作者の作品の意図については別稿がある。それを読むと作者は幼少期から高校まで過酷といえる体験をされたようだ。最近よくニュースになる両親による虐待。それは人間に対する不信感を持つことになるだろう。
     オープニングは、事前に告知する余裕もなかったがコンテンポラリーダンスの、ナガッチョ氏、と万城目純氏。最終日は万城目純氏と富岡千幸氏のパフォーマンスが披露された。ナガッチョ氏はハーモニカ、仏具のおりん?のような楽器などを演奏しながらのタップダンスで、万城目氏は、口笛と不思議なダンス、富岡氏は能の謡いでコラボレーション。いずれも館内の観客を驚かせた。柴田氏を紹介していただいた造形アーチスト清田耕一さんとともに感謝したい。


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