2021 /11月4日(木)~ 11月21日(日)
「風のゆくへ」244.5×325 2021
アクリル、墨、キャンバス
部分詳細
部分詳細
「萌生」F60
「新生」F100
「浮遊の時」F60
「冬の予感」F100
「繋ぐ生」S100
原 田 光 代 作 品
会 場 の 様 子
※ 展覧会の様子がパノラマでご覧になれます
原 田 光 代 展 に
八 覚 正 大
展覧会が終り、こうして二週間ほど経ってみると、抽象の色彩の気持ち良く混ざり合った、何か音楽を聴いていたような感覚に襲われる、目で聴いていた音楽……一枚一枚、精魂込められた作品群。
一方、意味という感覚で迫れば、タイトルに込められたものがあったようにも思う。
「浮遊の時」「萌生」「森の声」「飛ぶ時」「森への時」「生」「流」「生の向こう」「生の予感」「新生」「繋ぐ生」「生の時」「森の生」「生の地」……こうして振り返ってみると、〈生〉〈森〉……という言葉の意味が湧いて来る気もする。それを作者は意識し続け、それをこそ描こうとしてきたのだと感じられる。
以前拝見したことのある、今回正面奥に飾られた「生の向こう」、そのオレンジ(と緑)を基調とした画面。中に白い卵のような形を浮き出させた作品、それにやはりもっとも惹かれた。
そしてその左方にあった「生の予感」、それは緑が印象的、さらに隣の「新生」は青が基調だった。今回、宇フォーラムという場を得て、その世界全体を俯瞰させて貰えたとも言える。
二階第一室を占めたそれらの作品群に、作者の〈生〉への思い、自らも育まれ、また育んできた思いが、抽象作品群の中に、〈色彩の音楽〉として展開し奏されたのだと。
八 覚 正 大
展覧会が終り、こうして二週間ほど経ってみると、抽象の色彩の気持ち良く混ざり合った、何か音楽を聴いていたような感覚に襲われる、目で聴いていた音楽……一枚一枚、精魂込められた作品群。
一方、意味という感覚で迫れば、タイトルに込められたものがあったようにも思う。
「浮遊の時」「萌生」「森の声」「飛ぶ時」「森への時」「生」「流」「生の向こう」「生の予感」「新生」「繋ぐ生」「生の時」「森の生」「生の地」……こうして振り返ってみると、〈生〉〈森〉……という言葉の意味が湧いて来る気もする。それを作者は意識し続け、それをこそ描こうとしてきたのだと感じられる。
以前拝見したことのある、今回正面奥に飾られた「生の向こう」、そのオレンジ(と緑)を基調とした画面。中に白い卵のような形を浮き出させた作品、それにやはりもっとも惹かれた。
そしてその左方にあった「生の予感」、それは緑が印象的、さらに隣の「新生」は青が基調だった。今回、宇フォーラムという場を得て、その世界全体を俯瞰させて貰えたとも言える。
二階第一室を占めたそれらの作品群に、作者の〈生〉への思い、自らも育まれ、また育んできた思いが、抽象作品群の中に、〈色彩の音楽〉として展開し奏されたのだと。
原 田 光 代 展 に
宇フォーラム美術館長 平松 朝彦
今回の展示は、カラフルな色彩と光がテーマということになるのだろうか。
会場には様々なきれいな色が満ちている。それは緑であれば森の木漏れ日であり、青であれば青い海の中から空を見上げたような景色、オレンジであれば熱い火山の溶岩のようでもある。あるいは草木の葉でも、春の若草色から紅葉の紅葉まで、四季それぞれの色の変化のようでもある。
作者の居住する西多摩地区は、緑の残る自然が豊かな地域だからこそ、そうした四季の色の変化を日常で感じることで生まれた作品なのだろう。
今回の作品の題名は、森とか生とかが多い。作者の夫君の原田丕氏もやはり森をテーマとした作品を多く描かれているものの、その画風という色調は正反対なのだが。同じ環境にいても表現がまったく違っていることが面白い。
作者の技法は、まずジェッソの白で下地を作る。さらに上にアクリル樹脂絵具で描くがその時はけを使うことにより大胆な筆致となる。さらに着色する時、色が混ざって濁らない組み合わせがあるという。以前はそれで終わったが、最近は最後にその上から黒の墨でやはり刷毛塗りする。その時、下地と撥水し思わぬ模様が現れるのだという。そうした作業を重ねていくと、偶発的に思わぬ形と色ができたりするのだという。
したがって全体の構成は似ているものの、ディテールが異なる。そして様々の作品が出来上がり、二度と同じものは描けない。だからこそ、これらの絵の鑑賞方法のこつは、より近くで見ることだ。近づいてみると部分の美しさを再発見できる。
さらに光を表す白地の部分は、意図的な塗り残しである。
しかし、かつての水墨画において月を、墨を塗らない塗り残しとして描いたように、光る部分を塗り残して積極的に生かしたのは水墨画的技法といえないだろうか。
いずれにしろ、かつての日本美術は自然風土に根ざしたものであった。そして今回の作品群はそれらが現代美術にリニューアルして変換されたように見える。
宇フォーラム美術館長 平松 朝彦
今回の展示は、カラフルな色彩と光がテーマということになるのだろうか。
会場には様々なきれいな色が満ちている。それは緑であれば森の木漏れ日であり、青であれば青い海の中から空を見上げたような景色、オレンジであれば熱い火山の溶岩のようでもある。あるいは草木の葉でも、春の若草色から紅葉の紅葉まで、四季それぞれの色の変化のようでもある。
作者の居住する西多摩地区は、緑の残る自然が豊かな地域だからこそ、そうした四季の色の変化を日常で感じることで生まれた作品なのだろう。
今回の作品の題名は、森とか生とかが多い。作者の夫君の原田丕氏もやはり森をテーマとした作品を多く描かれているものの、その画風という色調は正反対なのだが。同じ環境にいても表現がまったく違っていることが面白い。
作者の技法は、まずジェッソの白で下地を作る。さらに上にアクリル樹脂絵具で描くがその時はけを使うことにより大胆な筆致となる。さらに着色する時、色が混ざって濁らない組み合わせがあるという。以前はそれで終わったが、最近は最後にその上から黒の墨でやはり刷毛塗りする。その時、下地と撥水し思わぬ模様が現れるのだという。そうした作業を重ねていくと、偶発的に思わぬ形と色ができたりするのだという。
したがって全体の構成は似ているものの、ディテールが異なる。そして様々の作品が出来上がり、二度と同じものは描けない。だからこそ、これらの絵の鑑賞方法のこつは、より近くで見ることだ。近づいてみると部分の美しさを再発見できる。
さらに光を表す白地の部分は、意図的な塗り残しである。
しかし、かつての水墨画において月を、墨を塗らない塗り残しとして描いたように、光る部分を塗り残して積極的に生かしたのは水墨画的技法といえないだろうか。
いずれにしろ、かつての日本美術は自然風土に根ざしたものであった。そして今回の作品群はそれらが現代美術にリニューアルして変換されたように見える。
浸透 ( osmosis ) 展を対話しつつ観られて
八覚 正大
今回も四人の作者たちとの「対話」ができた楽しさ、喜びに触発され書かせてもらうことにした。参加対話型美術鑑賞こそ、見る側の一方的主観的まなざしを超えて、作者とのダイアローグによって、〈いまここ〉で開かれた〈まなざし〉を通し、「生きてそこにある作品たち」に触れ得る得難い鑑賞法であると――最近は確信してきている。
まず、話せたのが日比野 猛さんだった。「 浮遊する顔料のための交響曲 」というタイトルの付けられた作品。俯瞰したグランドピアノの形を四等分し、そこに木枠の縁を付け、内部に顔料を注ぎ込み、その入り混じる様相を作品化したとのこと。
今回の展覧会タイトルを体現した作品と言えよう。またそれは今回の自らを含めた四人の作家へのオマージュのようなものでもあると。
色の混じり合う美しい海のような象限、二項対立の象限、円形の形の見える象限、そして作家自身の、弧を幾重にも描くような作品……。
今回それらにはまだ乾いていない部分があり、ねじ釘がぽつりぽつりと刺さっていることにも気が付いた。作品の下には管が繋がっていて、さらにプラスティックのカップがたくさん置かれている。ねじ釘は抜くことができ、そこから絵の具が管を伝って流れカップに溜まる、それを他の象限に再利用することもできるのだと……。
コンパクトな小空間ながらも、それは地球の水分の循環を大気方向と地下へとの両方を捉えているのでは~と感じられた。
また顔料の入った瓶がずらっと鍵盤のように並べられてもいる。様々な色が混ぜ合わせられたようだが、総じて地球の表面のように青、緑、白……系の美しい表層を感じさせられた。
それから、山﨑 康譽さん。「Marks u-2021」と題された作品群だ。黒い縁取りの楔が、上から下に垂直に撃ち込まれたような、迫力の感じられる絵画作品群だ。
作者はかつて、弥生文化的な丸みを帯びた穏やかな感触を体現した作品をつくり、自らもそう生きて来た……しかし、最近本質的には縄文的な性格だったのではと自ら気づき、このような形・痕跡をマーキングしたくなったのだと。
そこには未だ理性的形を残しつつも、作者の語ったようなある種「猛々しさ」の迫力が感じられ、共感を覚えた。
かつて筆者は中学生くらいの頃、親の故郷の諏訪湖畔を一体とした縄文文化に憧れ、黒曜石やそれから作られた矢じりを一人で拾い続けたことを思い出す。黒曜石の破片、矢じり……それらに触れ得た時、長い時を隔てて、その縄文人たちと手を触れ合えたような歓喜を体感したものだった。
山﨑さんの作品群は、芸術家としての洗練さを見せながら、原始の生命力を記して見せた感があり、迫力をこの館内に漲らせていたといえよう。
藤下 覚さん。「表層」。まず明るい感じの作者と顔が合った(笑)、そこからすぐに表現力豊かな説明を受けられた。3.11の震災の体験は大きかったと。
そして表層に生きる文化と、その奥にあるものとの対比、表層と内面との差異を表現することに向かって行ったと。
作品は線の縞が微かに見えているものがまずあり、それに対した何通りかの表し方を作品に展開していると感じられた。表面は鉄板のように見えながら突然ライトが内側から光り、そこに太く短い稲妻のような線が表出される作品。
それから小生が「 聖なる壁 」と密かに名付けている宇フォーラム最奥の壁にある大作に目が行った。表層の三作、その間に一つ置きにおかれた斜めに閃光が見える作品群、これらはその内部をアクリル板を通して見せる、こちら側からの可視的な作品だ。
見える事、見せる事、見えてしまう事への、鮮烈に相反するベクトルを感じさせられた。作品そのものもシャープであり、ある種様式美さえ感じさせる。さらに、一つの作品中に、それら相反する意匠を組み入れたものもあり、展開に工夫が感じられた。
最後に関 仁慈さん。「Unwritten law」。白い線の吹き付けられた鮮烈さが印象的だ。話を聴いている内、その素材がボンドなのだと分かった! その瞬間、作品が身近になるとともに作者の意匠、作品創作の原点が伝わってきたように思えた。
芸術は人間の行為の投影だ。己の内に何かが湧き出し生まれ、己の居場所である手近な環境からまず掴める素材を用い、半ば無意志的行為によって表出していく…(子どもの砂場あそびを見れば分かる)まさにその原点がある。
本人はジャコメッティが好きだという。その削ぎに削ぎ落していく、核心にせまる行為の表現が――。こちらはそれに共感しつつ、クリストを持ち出していた。あの巨大なモニュメントから議事堂から、島まで梱包してしまった芸術行為……その始まりは缶や石ころや…という身近な素材を包むことからだったのだ。
翻って作品を眺めると、ボンドを噴出させる行為は一回性のそして短時間の、ある意味刹那に近い集中の要るものだ。そのフロー行為こそに作品の成否がかかってくる。それはある種アニミズムに似て、途切れない行為なのだ(アフリカの仮面・彫像などを筆者は収集してきたが、それらはみな一木であり、そうでないと精霊が宿らないのだ)。そんな話も返しつつ、白の線描を見直すと、身近な素材、途切れない行為の中に命が見えてくる。ただ、作品として定着させるのは、そこから熟練した技法によってであり、さらにアクリル板に貼って見せる作品は光に当たり微妙にズレた影が壁に映っている……それも合わせた作品として、鑑賞者の目に供応するものとなっているのだ。
拝見した翌々日、まだ生業としている不登校生徒(中学)訪問をし、勉強の合間に写した写真を何気なく見せていた。すると、工作の好きな彼はこんな感想を即座に返してくれた。順番はこの批評と同じだ。
「この作品は海のようだなあ、綺麗」「この形、ほら工事で穴掘りに使うやつに似てる(ツルハシと言いたかったようだ)」「この図形の線、かつこいい!」「身近なもの、ボンド使ったなんて良いなあ、わっかるなぁ~」と。
八覚 正大
今回も四人の作者たちとの「対話」ができた楽しさ、喜びに触発され書かせてもらうことにした。参加対話型美術鑑賞こそ、見る側の一方的主観的まなざしを超えて、作者とのダイアローグによって、〈いまここ〉で開かれた〈まなざし〉を通し、「生きてそこにある作品たち」に触れ得る得難い鑑賞法であると――最近は確信してきている。
まず、話せたのが日比野 猛さんだった。「 浮遊する顔料のための交響曲 」というタイトルの付けられた作品。俯瞰したグランドピアノの形を四等分し、そこに木枠の縁を付け、内部に顔料を注ぎ込み、その入り混じる様相を作品化したとのこと。
今回の展覧会タイトルを体現した作品と言えよう。またそれは今回の自らを含めた四人の作家へのオマージュのようなものでもあると。
色の混じり合う美しい海のような象限、二項対立の象限、円形の形の見える象限、そして作家自身の、弧を幾重にも描くような作品……。
今回それらにはまだ乾いていない部分があり、ねじ釘がぽつりぽつりと刺さっていることにも気が付いた。作品の下には管が繋がっていて、さらにプラスティックのカップがたくさん置かれている。ねじ釘は抜くことができ、そこから絵の具が管を伝って流れカップに溜まる、それを他の象限に再利用することもできるのだと……。
コンパクトな小空間ながらも、それは地球の水分の循環を大気方向と地下へとの両方を捉えているのでは~と感じられた。
また顔料の入った瓶がずらっと鍵盤のように並べられてもいる。様々な色が混ぜ合わせられたようだが、総じて地球の表面のように青、緑、白……系の美しい表層を感じさせられた。
それから、山﨑 康譽さん。「Marks u-2021」と題された作品群だ。黒い縁取りの楔が、上から下に垂直に撃ち込まれたような、迫力の感じられる絵画作品群だ。
作者はかつて、弥生文化的な丸みを帯びた穏やかな感触を体現した作品をつくり、自らもそう生きて来た……しかし、最近本質的には縄文的な性格だったのではと自ら気づき、このような形・痕跡をマーキングしたくなったのだと。
そこには未だ理性的形を残しつつも、作者の語ったようなある種「猛々しさ」の迫力が感じられ、共感を覚えた。
かつて筆者は中学生くらいの頃、親の故郷の諏訪湖畔を一体とした縄文文化に憧れ、黒曜石やそれから作られた矢じりを一人で拾い続けたことを思い出す。黒曜石の破片、矢じり……それらに触れ得た時、長い時を隔てて、その縄文人たちと手を触れ合えたような歓喜を体感したものだった。
山﨑さんの作品群は、芸術家としての洗練さを見せながら、原始の生命力を記して見せた感があり、迫力をこの館内に漲らせていたといえよう。
藤下 覚さん。「表層」。まず明るい感じの作者と顔が合った(笑)、そこからすぐに表現力豊かな説明を受けられた。3.11の震災の体験は大きかったと。
そして表層に生きる文化と、その奥にあるものとの対比、表層と内面との差異を表現することに向かって行ったと。
作品は線の縞が微かに見えているものがまずあり、それに対した何通りかの表し方を作品に展開していると感じられた。表面は鉄板のように見えながら突然ライトが内側から光り、そこに太く短い稲妻のような線が表出される作品。
それから小生が「 聖なる壁 」と密かに名付けている宇フォーラム最奥の壁にある大作に目が行った。表層の三作、その間に一つ置きにおかれた斜めに閃光が見える作品群、これらはその内部をアクリル板を通して見せる、こちら側からの可視的な作品だ。
見える事、見せる事、見えてしまう事への、鮮烈に相反するベクトルを感じさせられた。作品そのものもシャープであり、ある種様式美さえ感じさせる。さらに、一つの作品中に、それら相反する意匠を組み入れたものもあり、展開に工夫が感じられた。
最後に関 仁慈さん。「Unwritten law」。白い線の吹き付けられた鮮烈さが印象的だ。話を聴いている内、その素材がボンドなのだと分かった! その瞬間、作品が身近になるとともに作者の意匠、作品創作の原点が伝わってきたように思えた。
芸術は人間の行為の投影だ。己の内に何かが湧き出し生まれ、己の居場所である手近な環境からまず掴める素材を用い、半ば無意志的行為によって表出していく…(子どもの砂場あそびを見れば分かる)まさにその原点がある。
本人はジャコメッティが好きだという。その削ぎに削ぎ落していく、核心にせまる行為の表現が――。こちらはそれに共感しつつ、クリストを持ち出していた。あの巨大なモニュメントから議事堂から、島まで梱包してしまった芸術行為……その始まりは缶や石ころや…という身近な素材を包むことからだったのだ。
翻って作品を眺めると、ボンドを噴出させる行為は一回性のそして短時間の、ある意味刹那に近い集中の要るものだ。そのフロー行為こそに作品の成否がかかってくる。それはある種アニミズムに似て、途切れない行為なのだ(アフリカの仮面・彫像などを筆者は収集してきたが、それらはみな一木であり、そうでないと精霊が宿らないのだ)。そんな話も返しつつ、白の線描を見直すと、身近な素材、途切れない行為の中に命が見えてくる。ただ、作品として定着させるのは、そこから熟練した技法によってであり、さらにアクリル板に貼って見せる作品は光に当たり微妙にズレた影が壁に映っている……それも合わせた作品として、鑑賞者の目に供応するものとなっているのだ。
拝見した翌々日、まだ生業としている不登校生徒(中学)訪問をし、勉強の合間に写した写真を何気なく見せていた。すると、工作の好きな彼はこんな感想を即座に返してくれた。順番はこの批評と同じだ。
「この作品は海のようだなあ、綺麗」「この形、ほら工事で穴掘りに使うやつに似てる(ツルハシと言いたかったようだ)」「この図形の線、かつこいい!」「身近なもの、ボンド使ったなんて良いなあ、わっかるなぁ~」と。