尾崎悦子展 ―縞の黙示録―  の記録

 尾 崎 悦 子 展 ― 縞の黙示録 ―  

  •    縞 馬 幻 想
    弾かれ離脱をこころみる断片
    載せられては跳ねられ
    それでも粘りつく片片のエネルギッシュな集積
    好奇なまなざしを
    どこまでも吸いとった色と形と墨の奔流
    情と意と知が 状と位と血とに変換され
    …… 解体と集積の動と静が渾然と同居する ――
    隠し画だまし絵のように無数の顔を内在化させ
    山塊の岩岩が降り積もった雪渓から顔をだし
    かつて生きていた数多のシマウマの痕跡をほうふつとさせる

    …… シマウマ 縞馬 縞縞 縞うま しましまシマシマ 縞馬シマウマ シマシマシマシマ 馬縞 縞馬しましま縞馬 縞馬 縞縞しまシマ 縞馬 シマシマしまし縞シマ
    しましましま 縞馬 縞馬 縞縞 しまシマシマ 縞馬 マシマシマシ 馬縞 縞馬しましま縞馬 縞馬 しまシマ 縞馬 シマシマしましまし馬縞 シマシマシ シマしまマシしま縞 馬しまし シマしま縞馬 ……

    赤青黒三頭の象徴の裸形を擁しつつ
    雪崩をうって解かれ崩れ落ちていく …… 肉塊 表皮 さらけだされた骨 内臓の猟塊
    そこから ふたたび一頭の雄牛のごとき姿が整然と立ちあらわれる

    生の偶然と死の必然
    無意識の不条理と意識の条理
    いさぎよく解体された命の断片の
    腐敗を知らぬ中空の凝固

    シマウマが縞馬であり続けるのはなぜか
    シマウマが縞馬でなくなる限界はどこか
    縞を残しつづける命とはなにか
    ―― 尽きない情と意と知の冒険

            尾 崎 悦 子 ――「縞の黙示録」に


     
  •      作者のコメント

     わたしは長年、画面のどこかに縞馬を入れた油彩画を描いてきましたが、アラン・チューリング(英国の数学者)の動物の模様を解く数式との出会いがあり、縞に焦点を合わせて描くようになりました。
     近年、数式に基づく表現に少々窮屈さも感じているところに縞馬の肉体は捨てられ、生のない縞だけ(写真ですが)をたくさん見て、衝撃を受け、同時に墨とリペル*という新しい素材にめぐり会い、今まで感じたことのない不思議な感覚や生と死にたいする感情が一気に噴き出し、夢中で制作しました。落ち着いてみると、まだ数式にも興味は残っていますし、リぺルの自由なマチエルも手放すつもりはないので、当分「縞」馬からは離れられないと思います。
      (*ウエマツ画材店が開発したはじき絵素材)


  •         展 覧 会 に        平 松 朝 彦 (宇フォーラム美術館館長)

     尾崎悦子さんは、東京教育大学(現・筑波大学)の芸術学部を卒業後、美学校で中村宏氏に師事し綿密なスーパーリアリズム系の油絵に取り組むが、特徴は空間の表現だ。
     そして、サルバドール・ダリ、ルネ・マグリッドを思わせるシュールな絵画になる。
     今回展示された35年前の作品である「地下水道」は本物の時計や衣服がコラージュされたもの。振り子の時計、ジーパンとデニムのベストの本物と絵がパラレルに並ぶ。
     一見、本物と見まがう描写力。本物と絵を同時に見せるとはまさに力量を問われることで作者の自信を表すものだ。
     私は、今まで美術史で聞いたこと(見たこと)がない。これはある意味で既成の芸術に対する反芸術、ダダイズム? 
     尾崎悦子さんは、のテーマの縞であるが、この独特の縞模様は新たなキュビズム。
     作者は「アラン・チューリング」の数式が縞馬の模様を表す事を知り興味を持ったという。
     飛行機の窓から大地を眺めると地表の川、森、湖など様々の模様が浮かび上がり見飽きることがない。それは地球の模様など自然の造形につながる。リベルはいわゆるはじき絵ともいわれ非人為の作用。
     しかし美術史を振り返るとはじかせたり、にじませたりは絵の重要な技法の一つだ。
     絵画は人為の極み。逆に自然は非人為な模様に満ちている。この二つが組み合わさると不思議な景色が生まれる。
     以前の油絵もそうだが、作者の興味はミクロにあるのかもしれない。今回のリペルもまた、究極のディテールの作品。しかしそれは通常の絵の写真では部分のアップがないとわからない。
     実際の絵を見ないと、ということだ。構図の大胆さと発想は卓越している一方、ディテール的にはリペルの模様が、宗達などの「垂らしこみ」を想起させる。
     リペルは一種の「垂らしこみ」だが乾くとそれが表面の割れ模様になる。
     「垂らしこみ」は乾かないと模様がわからない自然がつくる造形。垂らしこみの技法は、偶然性に支配されるオートマティズム(自動画法)でもあるが、だれでも「垂らしこみ」に成功するわけではなく、宗達のように達人である必要がある。
     現代での「垂らしこみ」は以前、平松輝子が銀紙、金紙など水をはじかない画面で行った。それらの模様は神がつくったもの。さらに作品は人が作るのか、神が造るのか、という問いも生まれよう。
    後半の作品タイトルにみられる「地の塩」はキリスト教の言葉。
     以前作者は、皮を剥がれた縞馬の横で笑う人々を見て衝撃を受けたという。
     作者はクリスチャン系の学校で長らく教鞭をとっておられる。縞馬だけでなくすべての命の鎮魂の意味を込めた作品であり作者の慈愛の視点を感じる。
     この現実の世界は(自然界も含め)殺生の世界そのものだ。殺生なくしてこの世は存在しない。
    それもまた、神の意志なのだろうか。
     尾崎さんは具体的な縞馬を題材としながら、生と死をテーマとしていて、作者の慈愛に満ちた視点がうかがえる。
     今後、このウエマツが開発したリペルは新たな日本独自の画法となるのかもしれない。
    その意味でもこれらの作品の持つ意義は大きい。またさらにビニールにラミネートして立体化させたり、作者のチャレンジ精神にも関心した。

               尾 崎 悦 子 展 に             八 覚  正 大

     その四連のDMを見た時、今までにないようなインパクトが伝わってきた。
     放射状に縞馬の縞が放散する「ZEBRE」(1)、黒白の縞、灰色の地をベースにオレンジと青の、どこか血しぶきのような上塗りの彩色。
     己が所蔵しているアフリカ・ティンガティンガの縞馬の画と見比べたりしてみた。こちらの方が動きは激しい。
     「ZEBREⅡ」は縦の作品とみると沢山の狩猟捕獲された鴨が並べ吊るされたような、横に見るとエッシャーの「昼と夜」のような入れ込みも……でももっとダイナミックな感触。
     白黒の二作、「剥がれる縞と塩Ⅱ」「地の塩になれⅡ」は、縞を多少残しつつもさらに断片化され、あるいは溶解したような感触、まったく非対称だがロールシャッハの図像なども連想した。
     DMの裏面には、「動物の模様を解く数式に出会い、縞に焦点を合わせて描くようになった」という作者の言葉が。
     それから「縞馬の肉体が捨てられ、生のない縞だけの写真を見て衝撃を受け、墨とリペル(はじき絵)という新しい画材に巡り合い、今までに感じたことのない不思議な感覚や生と死に対する感情が一気に噴き出し……」とあった。
     また平松館長の解説もあり、「「リペル」とは非人為の作用、はじかせたり、にじませたりは絵の重要な要素。
     テーマは縞だが、「この独特な縞模様は新たなキュビズム」と。さらに「具体的な縞馬を題材にしながら、生と死をテーマとしていて、作者の慈愛に満ちた視点がうかがえる」と。そこで、ある種の連想や既視感も湧かせつつ、かなりの期待をもって臨んだのである。
     二階の奥には作者の早い時期の、暗い廊下に時計があるシュールな作品や、青いシャツをコラージュした同じものを並列させて描いた実験的なものなど、なかなか興味を惹かれた。そして、縞馬もある程度原形を留め赤や青を掛けられた作品群もあった。
     ただ、第一室の白と黒の新しい作品群(墨とリペル)が特に面白く感じられた。それは事実現実、そして写実を超えて抽象化して行く階梯の中で、逆に意図される輪郭や狙いが伝わってくる……そんな感覚だった気がする。
     最も新しい(この展覧会のために描いたばかり)という作品に、こちらは最も惹かれ、そこから以下のような言葉が湧いてきた。

     
  •   

  •  
  • 2020年 2月20日~3月8日






















 














迷企羅大将部分

「ZÈBRA」 2006 M20 油

「赤のZÈBRA」 2016 F30 油

「別な世界へ①」1987  F80 油 

「地下水道」1985  F100 油

「縞の黙示録①」 2019 109×157 リペル

「縞の黙示録⑤」2019 F80+F80 油+リペル

「時を越えてきた縞①」2008 F100+パネル、油

「縞の黙示録③」 2019 79×55 リペル

「縞の黙示録②」 2018 55×79 リペル

「逢魔が時のZÈBRA」2015 F80 油 

櫻「分解し始めた縞②」2018 F80油+リぺル 

「日常に入り込んだ縞馬」1994  F100 油

「別な世界へ②」1987 F80 油 

 ディテール

作   品

会 場 の 様 子

※ 展覧会の様子がパノラマでご覧になれます