2021/6月17日(木)~7 月4日(日)
ペーター・トロイ 「whaaa!」37×42
松本 隆一「面白出会い No3.63×19、d35」
ペーター・トロイ 「sssmmm!」37×42
ペーター・トロイ 「If 6 was9」37×42
ペーター・トロイ 「Zazie」37×42
ペーター・トロイ「OVO」37×42
ペーター・トロイ 「vom?-hinten?」37×42
ペーター・トロイ 「アアノー」37×42
松本 隆一「変容 No1. 34×16、d8」
松本 隆一「変容 No2. 170×42、d96」
松本 隆一 左 「妄想 No1.230×13、d53」
右上「妄想 No2.110×130、d15」
右下「妄想 No3.60×56、d12」
中村 ゆき「September Song」32×26」
中村 ゆき 「Somewhere before」65×98
中村 ゆき 「Blue」65×90
中村 ゆき 「Indian summer」65×90
中村 ゆき「いつも川が流れていた」78×52
中村 ゆき 「It’s beautiful day」65×90
中村 ゆき「QUIET」39×30」
松本 隆一「妄想No4. 53×67、d6」
松本 隆一 「面白出会い No5.32×34、d3」
松本 隆一「面白出会い No1. 135×43、d30」
・中 村 ゆ き
染色家。日野市在住。
ファイバーアートグループ「糸楽」メンバーとして国内外でグループ展多数。
織と染の技法を用い、独自の世界を制作。
「風景の向こうに」をテーマに移ろいゆく時のひとかけらを写しとれたらと、思いつつ・・。
・松 本 隆 一
府中市在住、1970年代、数回個展。
以降、造形業で商業美術。
仕事の合間に様々の素材や、制作アイデアと出会う。
物から抽象イメージへと思いつきを形にすべく制作。
発表は宇フォーラムで数点のみ。面白い出会いが制作の動機。
・Peter Treu
須坂市在住。私は1953年にドイツのヴェルデールに生まれ、1982年に来日し、禅、書、合気道を学びました。
私は、1985年から和紙を自作するプロセスを研究開発してきました。
1989年、オイルパステルを使った絵画は、その上に作成され、有機的な色の遊びに触発されました。
それはドローイングというより「紙の鋳造」のようなものです。
中 村 ゆ き
松 本 隆 一
Peter Treu
会 場 の 様 子
まったく経歴の異なるユニークな三人のアーチストが、デジタル社会に対抗するかのように人間復興に立ち上がる。
自由な発想や制作の楽しさに目覚めよと!!
※ 展覧会の様子がパノラマでご覧になれます
作品には織物の作品と絞り染色を配置させた二つのシリーズがあり、ある人は別の人の作品と思ったという。
まず織物の作品は、織機で織る複雑なパターンで手間がかかっている。
ある人は、そのうねりをムンクのようだといったが私にはさらにゴッホの絵画も連想させる。
さらに海の水平線のような具象的なイメージの波の間には白のスズランテープが使われて光らせている。
より立体造形的なシリーズでは、作者が住む近くの多摩川で採取した枯草(枯れ枝)が使われ、より作者の自然志向がうかがえる。
もう一つのシリーズは、様々の絞りで染色した布をパターンで配置する。20個、30個とかが集まって作品となる。絞り染めのデザインは偶然によって生まれ、二度と同じものはできないが、絞りの図形は、氷や雪の結晶のようで一つ一つが美しい。
これは人が意図して作ることができない模様。おそらく大きな絞りはできないから、小さな宝物を集めた宝石箱の感覚。
さらに青、緑、黄、赤、それぞれ四季を思わせる題名がつけられている。それは日本人の四季の感覚。
一方、いずれも題名は詩的で、かつての音楽のフレーズだったりするところに作者が音楽好きの文学少女だったことを思わせる。
様々な記憶が作品に込められているようだ。そしてそういうところに、見た人の「わかる」という反応と同時に見た人のイメージが広がる。
絵は「わかる」ことを強制しないが、わかってもらうとうれしい。それが絵なのだ。
身近にある様々な面白い物を拾って作品にする。そうした物との出会いは作者のいう「面白出会い」。
「面白出会い」シリーズの木片は自然の根っこのようなものから人工的な板、焼けた板まで。そして石ころ。
一方、人工的な古い円盤投げの円盤、丸棒に銅線のようなものが巻かれたコイル。ブリキなどの金属片。
捨てられた廃材で作るアートはジャンクアートといわれる。
当館は1970年代に活動したジャンクアートの先駆者、木村直道氏のユーモアに満ちた作品を一点所蔵している。氏はアメリカ文化センターで通訳として働いていて、1970年に開かれた平松輝子展の時に両親とデ・クーニングとの写真の真ん中に映っていて私もかすかに記憶がある。
調べると、ジャンクアートとはピカソやブラックがコラージュの材料として様々の素材を用いたのがはじまりだという。
それはアカデミックでハイソな芸術品にたいする反逆の意味もあるようだ。廃品を使ったというより、その形に面白さを見出した。
それらをさらに着色したり穴を開けたり、組み合わせること。それは「思いがけない」ことと「よく考える」という二つの矛盾した意図により新たな面白さが生まれる。
「面白出会いNo5」の評判が高かった。
そして鉄を溶接してつくられた「変容シリーズ」。子供のゆりかごベッドが乳母車、そして最後は作品に変容。私はこれが好み。釘(?)や銅線を溶接してつくった鳥の巣のような不思議な物体。
そして最後は木の組み合わせの「妄想シリーズ」。ジャンクというが、現代美術の主流に近い造形的な作品であるように思う。
作者がいう「面白い」と言う感覚。それはもしかして昨今の日本の現代美術が失ったものかもしれない。
何か不思議な絵である。抽象画だが、物語の絵本のようでもある。抽象画だからこそ、形のない感情を表すことができ、むしろそれが抽象画の特徴ということを思い出す。
ドイツでは表現主義の作家がたくさんいる。ペーターさんの作品は、そうした意味で典型的な西洋の抽象表現主義。
さらに下記英語コメントのように、ロック、ジャズ、クラシックなどの音楽にインスピレーションを受けているようだ。
一方、作者の志向は、禅だという不思議。ただ、無心で絵を描いているという感覚はある。
ペーターさんは紙にはこだわりがあり、下地の紙は「巌紙」と名付けた自製のもので凸凹でかなりの厚みがある。大きさはおおむね37×42cm。塗ったものではないという黒色の下地の紙にオイルパステルで図柄を描く。
そのオイルパステルは発色が良い外国製でなかなか手に入らないそうだ。その色はきわめて鮮やかで美しいがプリンターでの再現は難しい。
紙の表面は凸凹でごつごつしている。そしてパステルの塗り残した黒い部分が線になる。
その絵は様々に解釈できる。それはアルタミラの洞窟に描かれたプリミティブな動物のようでもある。あるいは近代のミロの作品にも似ているが、地色が黒で塗り残しが線となるため、それはルオーの絵画のようでもある。パステルにも秘密があるのだろうが、色が綺麗で見る人をひきつける。
BOLERO, PATS BLUES, IF 6 WAS 9 are references to music I hear while I’m painting Bolero= Ravel, Pats Blues= Pat Metheny, a famous jazz guitarist, if 6 was 9= a song of Jimi Hendrix, one of my favorite musicians.
・sssmmm=buzzing sound like that of a bumblebee ・Whaaa=yelling loudly, mouth wide open
・if 6 was 9 (see above) ・Caramba= exclamation of surprise (Spanish) ・Zazie= refers to the movie „Zazie in der Metro“ ・Ovo=egg (latin) ・Bolero (s. above) ・Aano= the sound you make when you want to say something and cannot find the right word instantly ・Pats Blues (see above)
・vorn?hinten?= take it as an instruction to the beholder to switch his/her focus
宇フォーラム美術館 館 長 平 松 朝 彦
「 ハンドメイド・アブストラクト 」
まずハンドメイド・アブストラクトとは何か?
ハンドメイドとは手作業でつくるものでアブストラクトは抽象。美術品はおおむねハンドメイドだが、素材や素朴な技法にこだわった物ということ。
身近に落ちていた木片や木の枝。それは自然物の造形だが、普通の人はあえてそれに目を止めることはない。
しかし当たり前のものだと思わず「これは一体何 ?」と思う。
見方を変えれば世の中は面白い物に満ちている。すべてのものには多様な価値がある。
視えないのはその人の目が曇っているからかもしれない。
多くの「世間の人」は、価値があるものとは、厳重に美術館に飾られたり、値札にたくさんの丸が付いている「商品」と「信じている」。
さらに「世間の人」は、「有名」なものは「有名」だから価値があるという有名病患者でもある。
かつてマルセル・デュシャンは小便器を「泉」と称し、「美術館」と「世間の人」の画一的な価値観を皮肉った。
小便器は美術品と対極であり、美術品ではないことに意味があった。
今回の作者たちは、由緒のある紙ではなく自分で紙を漉き、それに絵を描いたり、人間では作れない小石や枝を使い、自分と自然のコラボレーションをしようとする。
それは近代の「商品」と言う名の消費社会に対する反逆なのだ。