「墨を使った抽象の作品展」
青 山 穆 展
2016年6月2日(木)~19日(日)
※ 展覧会の様子がパノラマでご覧になれます
作品 1
作品 4
作品 3
作品 6
作品 5
作品 8
作品 7
作品 10
作品 9
作品 11
作品 2
副題を「認知と創作」としたい。認知とはいま流行りの? あのことではない。一人の芸術家が、さらに言えば一人の人間が、己が関わる世界の認識のことだ。
敢えて言えば、それは時空の中を刻一刻進んで行く己という生命体が、出遭う世界の認知の仕方だ。赤ん坊時代の「己」を思い出せる人間はいない。それは原初の世界へ分離し関わっていく行為そのものの中で、自己認識、関わりの認識といったメタ認知の部分はいまだ未生だからだ。
でも我々は物を触り見て認知し、やがて親から離れ、学校を出て、社会のシステムにも入り(入らない場合もあるが)、やがて脳内に培われたはずの独自の思考枠・認知枠を形成し、そこからはその内側から透した外の世界と接し、摂り入れまた吐き出し、表現して行く。
今回、そんな理屈を吐きたくなったのは、この作者の不思議な素朴さと、大胆さと、ある種幼児性に回帰しつつあるような墨絵に出遭い、さらにその作者の創作の秘密を、さりげなく垣間見せて頂いたからだ。
ちょうど、この展覧会の前に拙覧会ともいうべき「アフリカの顔」展を、この宇フォーラム美術館で開催させて頂いた。青山氏もおいでくださったのだが、その時の仮面などの素描を直接見せて頂いたのだ。そこには仮面の縁とか、口とか、形だけ……という部分の素描が、小さなスケッチブックの中に摂り入れられていた。
かつて具象作品も抜けられてきた作者から、その最も印象的な「部分」を元に想像力によって新たな世界を構築させること、それが現在の創作行為である――という明快かつ直截的なお話を伺った。
さて、今回私が惹かれたのは、黒い逆三角がぽろっと描かれ、その下部を雲のようなものが後ろから前に巻くように出てきて(二作)、もう一つ、その三角を切り裂くように真ん中から通り出てくる画面だ。一瞬切り裂き画面のフォンタナを連想し、何度か見直すうちに突き抜けるマジックを思った。その他矩形がいくつか重なっていたり、ぐにゃっとしたものが……かってにフランシス・ベーコンを連想したものもあったし、何か懐かしい田舎の囲炉裏・障子のような連想が湧いたものもあった。作者が人生の中で関わった印象深いものの断片、それを培われた技法で展開した世界なのだ。
宇フォーラム美術館のみごとな空間の中を、空調に少し泳ぐように展示された作品群……ふと、タイトルを思い返した。
青 山 穆 「天空を翔る」 平松 朝彦
アレクサンダー・カルダーのキネティックアートのモビールのように作品群が軽々空を舞う。実際には館内にそのような1/Fの揺らぎの風は吹いていないから幻想だが。
いつも和紙の作品の展示には悩まされる。一つ一つパネルにすると上から吊るせるのだが、今回の場合には 45枚のパネルとなりやや鬱陶しい。今回は約幅55cm、80cmの後ろが透けるほどの薄い美濃紙に作品を貼りつけて自製による簡単な掛け軸のように上から吊るし、さらに10cmほど壁面より浮かせる。複数の吊られた作品は組作品であり、当美術館特有の展示の困難さを逆手にとったアイデアだ。その工夫は長年、紙を扱って手なれたというより、むしろ発想の豊かさだ。
抽象そのものは、いにしえのカンディンスキーなどの抽象絵画全盛期を想起させるが、油絵ではできない水墨画による独自のもの。水墨の抽象だけであれば篠田桃紅を始め先達の試みはたくさんあるものの、幾何学と水墨の意図的な出会いは油絵でいえば坂田一男の「コンストラクション」にみる水平垂直線という明快な形とアンフォルメルの組み合わせのように刺激的で緊張感がある。坂田一男の水墨版といったらいいか。
さらに、画面を切り抜いたりコラージュにしたりという今まで誰も考えもしなかったアイデアがある。また一番濃い墨の漆黒の黒さは作品に力を与える。青山さんの持参したCDのプロコフィエフ、ヤナーチェクの現代曲と不思議に良くあった。
天 空 を 翔 る 青 山 穆
兵隊さんが戦地へ行く日本が来る。
爆弾が落ちて、母は死んだ。三十八才の若さ、そのとき僕は九才。
今日は背中に余寒の陽を受けて、こうしていてはいけないと座っている。
何しろ嫌なのだ、老いるとはこれかな。
青い空はどこまでも青い。今日は節分、福来るか。鬼は外!
追い出すほどのこともない。
来客あれば、抹茶一服進ぜよう。
雪がとけても起き上がれない水仙はふびん。
運命線をそれとなく見ている自分。
撮られた写真のわが顔をこの世にあるまじきと、うたがい深く不思議に思う。
聞こえるでしょうか「絵の言葉」。何のことはない、私のひとりごと。
あなたがお聞きになれば、あなたの「絵の言葉」。
天 空 を 翔 る