「田鶴浜洋一郎」展 2014/5/29(木)~6/15(日)

  

     「田 鶴 浜 洋一郎」 展

  • 192×455cm

91×182cm

91×91cm

会 場 の 様 子

遺跡

91×117cm

天象

182×91cm

182×91cm

182×91cm

  • 182×182cm
  • 182×182cm

182×91cm

    ■ 展覧会を振り返って  平 松 朝 彦

 田鶴浜さんは、現代において新たな墨の世界を開拓しようとしている画家だ。日本において墨というと水墨画や日本画というイメージがある。ピカソが墨を使って作品を描いたように西洋のたくさんの画家が墨の作品に挑戦している。墨は単なる画材の一つでしかなく、絵の世界に枠などない。墨の世界はまだまだ発展していくに違いない。今回の展覧会はそうしたことを発信する新たな試みである。
 田鶴浜さんの絵は、サブロクサイズを組み合わせた大きなもので、墨の作品としては異例なほど大きい。ところで、かつて日本の美術は、建築と一体化し、大きな障子、襖、屏風、壁画であった。大きな墨の作品に囲まれるという環境芸術的体験は、美術と人間のあり方を再考させる。
 本題に入る。田鶴浜さんの作品は題名がなく、見る人の解釈に任せる、とのことだ。ところで、田鶴浜さんは自然豊かな栃木の山に居を構えて絵を制作されている。そしてその地の風景は中国と違う「日本」の世界といっていいのだろうか。田鶴浜さんは大きな画面に、静かな世界を描こうとしている。あるいはかつての日本への作者の憧憬なのだろうか。
 作品の多くは、一見、空や景色のようだ。わたしは宋の時代の水墨画、牧谿の水墨画を思い起こす。牧谿は脱俗の禅の世界と通じ日本人に人気が高かった。牧谿は中国、宋の時代の水墨画家で、大気を描いた画家ともいわれる。あいまいで漠然とした霧のかかったような絵に点景として舟や人物を描いた。それはまた自然との一体感を表現したもので、禅の境地ともつながるともいわれる。
 しかし田鶴浜さんの絵には人物はでてこない。田鶴浜さんの絵は牧谿を感じさせるがその部分が異なる。あえて人物を消し去りたかったのだろうか。牧谿のようなテーマでありながら意図的に人の姿を消し去った。そこには人はおらず、空気だけ、光だけなのだ。ありきたりの言葉で言えば、無の境地なのだろう。そして大きな絵に囲まれて初めて気が付く。点景だった人は絵を見る人自身なのだと。
 今回の展示の目玉である畳5枚サイズの大作について触れたい。私にはこの大作は黒の山々と白々とあける朝のようにみえる。ところで朝とはどういうことか。太陽系の中で、地球が太陽の周りを回る、というとんでもないスケールの出来事が営々とあたりまえのように繰り返されている。朝日が昇るとは太陽と地球の回転における一瞬のことで、太陽が昇り、沈むという宇宙のダイナミックな営みにより地球には日が差し、そうでなければ漆黒の闇となる。つまり漆黒とは、まさに光のない宇宙のことだ。そしてこの絵はその荘厳な出来事を見事に表現しているように思う。
 もう一つの展示は平松輝子のインスタレーションである。日本は水の豊かな国である。水は、高温で蒸発して雲になり、逆に凍結すれば氷になる。変幻自在に形を変えるがさらに動物、植物がそれを取り込むことにより生きていくことができる。自然は水なしで生きていくことはできない。水が豊かであることは自然の豊かなことに繋がる。海水が蒸発して雲をつくり山に当たり冷やされて雨となる。自然界の大循環は誰が設計したのか。また鴨長明は水について「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と書くことにより無常観と時間を表した。
 もう一つ歴史をふりかえればフランスの印象派の画家たちは、水による影響を受けた。安藤広重は波や雨を描き、モネは日本風の庭園を日本人に設計させ「睡蓮」を描いた。ジャポニズムは印象派を生んだが、ジャポニズムとは水でもあった。水はいつも絵のテーマであった。 平松輝子のインスタレーションもまた、テーマは水である。メタリックペーパーに墨で描かれた水はまさに1/fにゆらめく波動の模様である。それは太陽の光を反射させてまばゆくきらめき、まるで本物の水を見ているかのようである。
 ようするに今回の展覧会で、平松は水になり水の絵を書き、田鶴浜さんは空気になり空気の絵を描いた。
今回の展覧会は、湿潤な大気を感じさせる田鶴浜さんの作品と、その雲が雨となり、雨による水の流れは川となり滝となる、という平松輝子のインスタレーションは二つが組み合わさることにより「大自然の循環」という神の摂理を感じさせる展覧会になった。

    ■抽象に賭ける 2014.5.3 八覚 正大

黒い絵
大きな大きな
畳五枚ほどの
その七割が黒だ
上部に地平線そして
開けた空間が見える
これは砂丘ではないのか
広いひろい外国の
たとえばシルクロードのような
そう 小さくとも隊商が描かれていて
そのラクダが二つの瘤を見せ 
ゆったりと歴史の中を随行していくなら……
日本画の巨匠の世界に繋がる
適度なことばを醸しだし
取り繕うことはできただろう

でもラクダなどいない
左方に窪みがあって
それが辛うじて砂丘の凹みを思わせるのだが……
だいいち 手前の一様に塗られた黒の濃度が深すぎる
探しても人はおろか 動物も岩も 樹木も草も
太陽も星も月も……何もない
ないからといって
虚無に包まれるわけでもない

ただこれほどまでに
見るものの視線を受け止め
吸いこんでいくのはなぜだろう
……音がしている
広いひろい砂丘を吹き抜ける
暖かくも冷たくもなく 激しくも穏やかでもない 微かに擦れた
……それは この美術館の部屋の上部に据えられた
換気扇の音――だ
そう 意図せざる音は
外界と内界の差異をつなぐその振動に託して
抽象化の階梯のただ中で
自然に発せられていただけ……

煤を用いて塗られたという空間
砂丘ではなく 作者の内面から現れた世界の展延
漆黒の闇から新しい何かが生まれる
その予兆の半歩前を奏でる
音楽以前の命のリズム

漆黒の「存在」――過去
塗り残されて輝く「白い光」――未来
その狭間で
窪みと水平の延びを
辛うじて与えられた一本の筋
「実存」という名の――いま
それは あなただ














  •  ※ 展覧会の様子がパノラマでご覧になれます