2021 /11月4日(木)~ 11月21日(日)
右「風の舞Ⅱ」116.7×72.7、2021
「風のゆくへ」244.5×325 2021
- 風のゆくへ -
津川 純子 コメント(作品集「風のゆくへ」より)
木々のざわめき、草のそよぎ
一瞬のゆらぎにふりむけば
その痕跡すらとどめず風は立ち去っていた。
「いま」を生きる者として
「いま」起きている様々な現象の中で
感じたものを切り取り、「いま」生きている記録のかたちとして
絵に向き合っていきたい。
津 川 純 子 経 歴
1981 フランス美術賞展(パリ・グランパレ)
1987 現代日本美術賞展(東京都美術館)
1988 日本国際美術賞展(東京都美術館)
1989・90 上野の森美術館大賞展(上野の森美術館)
1990 日本現代絵画展(宇部市立美術館)
1990 ひろしま美術展大賞展入賞
1990・92 広島の美術 (広島市現代美術館)
1991 広島県美術展大賞(広島県立美術館)
2004 第3回アジア女流美術家展
2004~11 日中韓現代美術展(釜山市・大阪市)
2012 A-21 国際美術展CASO展(大阪市)
2014 HEART ART COMMUNICATION展入賞(国立新美術館)
2015 アートオリンピア2015入賞
2017~20 日韓現代美術展(ソウル市・大阪市)
個展29回
- 風のゆくへ -
津川 純子 コメント(作品集「風のゆくへ」より)
木々のざわめき、草のそよぎ
一瞬のゆらぎにふりむけば
その痕跡すらとどめず風は立ち去っていた。
「いま」を生きる者として
「いま」起きている様々な現象の中で
感じたものを切り取り、「いま」生きている記録のかたちとして
絵に向き合っていきたい。
部分詳細
部分詳細
アクリル、カシュー塗料下地木製パネル (「風の韻」のみ油彩)
「変容」90.9×90.9、2019
「風の韻」116.7×116.7、2015
「風の譜」89.4×291、2020
「風の領域」130.5×324、2020
左「風の舞Ⅱ」116.7×72.7、2021
津 川 純 子 作 品
会 場 の 様 子
※ 展覧会の様子がパノラマでご覧になれます
八 覚 正 大
原田光代展が色彩の音色だとするなら、二階奥の第二室のこちらの個展は、ある意味植物の抽象形に込められた、作者の〈かたち〉への意匠を感じせられた。
微かに赤、緑の置かれたものもあったが、多くは黒と白の濃淡で、墨絵に近い感覚を生みだしている。その鮮やかな筆致による茎や幹や枝……雪の中で、枯れつつ咲いている結晶のような白い花々、そこに研ぎ澄まされた〈かたち〉が彷彿と立ち表わされていた。
ただ、それらを生み出している地に目をやれば、もうひとつの〈かたち〉に遭遇する。それは表面を覆う雪の中に垣間見える「黒い窪み」だ。それは微かな、それでいて見事な立体感を感じさせ、暗部でありながらそこから人知れず生命を湧かせる、そう生が立ち現れてくる凹み――。ひとしきり、鮮やかな筆致の植物群に目を奪われた後、私が惹かれて行ったのはまさにそこだった。
個々の作品についていえば、入ってすぐ右手にあった「風の韻」という外国で評価を受けた抽象作品は面白かったが、やはり正面奥の(宇フォーラムの聖なる壁と私が呼ぶ)壁面の、V字型(私はハート形と呼んだが、そ)の作品「風のゆくへ」にもっとも惹かれた。二枚ずつにみればそれぞれに画として成り立つのだが、この配置は(館長の労もあったとのこと)出色の工夫に思える、作品立体性が生まれ、さらに乱舞する龍の出現も感じさせたりした。その両脇には「風の舞Ⅰ」「風の舞Ⅱ」が配置され三位一体の像のようなイメージも喚起された。
その他、「風の時」「風の領域」「風の領域」「風のゆくへ」「風の刻」「風の譜」「変容」などの見ごたえのある作品群が室内を被い、入り口には小品だが、見る者の気を引き立たせるかのような「舞」「気」「景」の三作が置かれていた。芸術性からすれば、「風の領域」「風の譜」といった大作に込められたものが優れていようが、ある種デザイン性も感じられるこれらの〈息づく小品群〉にも作者の遊びにつながる〈楽しさ〉があるように思われた。
宇フォーラム美術館長 平松 朝彦
当館で同時期に開かれたカラフルな原田光代の会場から一転し、モノクロの世界。
一見すると水墨画の展示と思ってしまうかもしれない。余白の多い墨の絵画はまさに日本の美術。作者の住む岡山県は雪舟生誕の地。雪舟と言えば国宝の「破墨山水図」。そしてやはりモノクロのランドスケープで有名なのは等伯の「松林図屏風」。しかしよく見ると、水墨画ではない。
今回様々な作品があるが、多くは枯草が残る雪で覆われた光景に見える。しかし作者は必ずしもそうした意図はないと言われる。つまり静謐な心象風景である。
そもそも作者は、抽象的な油彩の絵画を描いていてこのシリーズの転機は2015年に開かれた国際公募展の第一回アートオリンピアに入賞した油彩の「風の韻」だった。
木製パネルにカシューで白く、かつ硬く仕上げしたあと黒の絵具を塗り(あるいはアクリルでスプレーし)、それを拭き取ったり、削ったりして下地を出す。
スピード感のあるエッジの鋭いこの新たな技法の硬質感は版画的ですらあるが、この作品を作るために編み出されたものであり、作者は新たな技法の開発者なのである。さらにドリッピングなどを施し、複雑な表情をつくる。それは半分意図的であり、半分偶然性にも支配される。
思えばジャクソン・ポロックがしたドリッピングは、水墨画ではすでに江戸時代に盛んにおこなわれていた。
作品の題名には「風」の文字が多い。題名を見なくても風を感じるという観客がいた。それは近世美術の花鳥風月の「風」であるかもしれない。
作者が琳派などに魅かれていることが、会話からわかった。琳派らによる、余白のある草月図はまさに半抽象的ランドスケープアートだ。モノクロとしては古くは牧谿から続く水墨画や琳派のランドスケープ絵画を引き継いでいる。
さらに注目なのは、幅3.2m、高さ.4mの大作「風のゆくへ」である。3枚のパネルをハート形に組んだ、私の知る限りかつてない形でさらに両脇にも作品を携える。これは作者がデザインの仕事をしていることと通じているのだろうがモダンだ。
実は当館の設立者である平松輝子も今回の作品群に通じる作品をたくさん描いている。展覧会終了時にその一部を作者にお見せした。
今回展示されたこれらの津川作品は、かつての琳派に見るランドスケープを感じさせるものがある。
今回の展覧会は広島県の開原通人氏のご尽力で実現した。あらためて感謝したい。
八覚 正大
今回も四人の作者たちとの「対話」ができた楽しさ、喜びに触発され書かせてもらうことにした。参加対話型美術鑑賞こそ、見る側の一方的主観的まなざしを超えて、作者とのダイアローグによって、〈いまここ〉で開かれた〈まなざし〉を通し、「生きてそこにある作品たち」に触れ得る得難い鑑賞法であると――最近は確信してきている。
まず、話せたのが日比野 猛さんだった。「 浮遊する顔料のための交響曲 」というタイトルの付けられた作品。俯瞰したグランドピアノの形を四等分し、そこに木枠の縁を付け、内部に顔料を注ぎ込み、その入り混じる様相を作品化したとのこと。
今回の展覧会タイトルを体現した作品と言えよう。またそれは今回の自らを含めた四人の作家へのオマージュのようなものでもあると。
色の混じり合う美しい海のような象限、二項対立の象限、円形の形の見える象限、そして作家自身の、弧を幾重にも描くような作品……。
今回それらにはまだ乾いていない部分があり、ねじ釘がぽつりぽつりと刺さっていることにも気が付いた。作品の下には管が繋がっていて、さらにプラスティックのカップがたくさん置かれている。ねじ釘は抜くことができ、そこから絵の具が管を伝って流れカップに溜まる、それを他の象限に再利用することもできるのだと……。
コンパクトな小空間ながらも、それは地球の水分の循環を大気方向と地下へとの両方を捉えているのでは~と感じられた。
また顔料の入った瓶がずらっと鍵盤のように並べられてもいる。様々な色が混ぜ合わせられたようだが、総じて地球の表面のように青、緑、白……系の美しい表層を感じさせられた。
それから、山﨑 康譽さん。「Marks u-2021」と題された作品群だ。黒い縁取りの楔が、上から下に垂直に撃ち込まれたような、迫力の感じられる絵画作品群だ。
作者はかつて、弥生文化的な丸みを帯びた穏やかな感触を体現した作品をつくり、自らもそう生きて来た……しかし、最近本質的には縄文的な性格だったのではと自ら気づき、このような形・痕跡をマーキングしたくなったのだと。
そこには未だ理性的形を残しつつも、作者の語ったようなある種「猛々しさ」の迫力が感じられ、共感を覚えた。
かつて筆者は中学生くらいの頃、親の故郷の諏訪湖畔を一体とした縄文文化に憧れ、黒曜石やそれから作られた矢じりを一人で拾い続けたことを思い出す。黒曜石の破片、矢じり……それらに触れ得た時、長い時を隔てて、その縄文人たちと手を触れ合えたような歓喜を体感したものだった。
山﨑さんの作品群は、芸術家としての洗練さを見せながら、原始の生命力を記して見せた感があり、迫力をこの館内に漲らせていたといえよう。
藤下 覚さん。「表層」。まず明るい感じの作者と顔が合った(笑)、そこからすぐに表現力豊かな説明を受けられた。3.11の震災の体験は大きかったと。
そして表層に生きる文化と、その奥にあるものとの対比、表層と内面との差異を表現することに向かって行ったと。
作品は線の縞が微かに見えているものがまずあり、それに対した何通りかの表し方を作品に展開していると感じられた。表面は鉄板のように見えながら突然ライトが内側から光り、そこに太く短い稲妻のような線が表出される作品。
それから小生が「 聖なる壁 」と密かに名付けている宇フォーラム最奥の壁にある大作に目が行った。表層の三作、その間に一つ置きにおかれた斜めに閃光が見える作品群、これらはその内部をアクリル板を通して見せる、こちら側からの可視的な作品だ。
見える事、見せる事、見えてしまう事への、鮮烈に相反するベクトルを感じさせられた。作品そのものもシャープであり、ある種様式美さえ感じさせる。さらに、一つの作品中に、それら相反する意匠を組み入れたものもあり、展開に工夫が感じられた。
最後に関 仁慈さん。「Unwritten law」。白い線の吹き付けられた鮮烈さが印象的だ。話を聴いている内、その素材がボンドなのだと分かった! その瞬間、作品が身近になるとともに作者の意匠、作品創作の原点が伝わってきたように思えた。
芸術は人間の行為の投影だ。己の内に何かが湧き出し生まれ、己の居場所である手近な環境からまず掴める素材を用い、半ば無意志的行為によって表出していく…(子どもの砂場あそびを見れば分かる)まさにその原点がある。
本人はジャコメッティが好きだという。その削ぎに削ぎ落していく、核心にせまる行為の表現が――。こちらはそれに共感しつつ、クリストを持ち出していた。あの巨大なモニュメントから議事堂から、島まで梱包してしまった芸術行為……その始まりは缶や石ころや…という身近な素材を包むことからだったのだ。
翻って作品を眺めると、ボンドを噴出させる行為は一回性のそして短時間の、ある意味刹那に近い集中の要るものだ。そのフロー行為こそに作品の成否がかかってくる。それはある種アニミズムに似て、途切れない行為なのだ(アフリカの仮面・彫像などを筆者は収集してきたが、それらはみな一木であり、そうでないと精霊が宿らないのだ)。そんな話も返しつつ、白の線描を見直すと、身近な素材、途切れない行為の中に命が見えてくる。ただ、作品として定着させるのは、そこから熟練した技法によってであり、さらにアクリル板に貼って見せる作品は光に当たり微妙にズレた影が壁に映っている……それも合わせた作品として、鑑賞者の目に供応するものとなっているのだ。
拝見した翌々日、まだ生業としている不登校生徒(中学)訪問をし、勉強の合間に写した写真を何気なく見せていた。すると、工作の好きな彼はこんな感想を即座に返してくれた。順番はこの批評と同じだ。
「この作品は海のようだなあ、綺麗」「この形、ほら工事で穴掘りに使うやつに似てる(ツルハシと言いたかったようだ)」「この図形の線、かつこいい!」「身近なもの、ボンド使ったなんて良いなあ、わっかるなぁ~」と。