平松輝子「墨」展

  

     平松輝子 「墨」展

  •     平松 輝子 「新しい墨」

  •  平松輝子は1978年にこの巨大ともいえる高さ約3mの二枚の大作をドイツで描いた。ほとんどの人は気づかないだろうが注意深くみればこれらの絵が和紙に描かれていないことに気づくかもしれない。しかしこの絵画は絶対に日本では生まれえなかった。
     平松と墨との縁は古い。1964年に日本橋画廊で「現代の墨」展を開いた。これは合板に石膏セメントを流し、和紙をコラージュした前衛作品だった。その展覧会を偶然目にしたアメリカ国籍の日本人画家、マイク金光が国立の自宅まで押しかけ、彼女をニューヨークに連れていくと、当時ニューヨークの画家たちがアクリル樹脂絵具を使っているのを目にした。水性のアクリルは通常のキャンバスに塗れないため、綿キャンバスに下地としてジェッソを塗っていた。平松もさっそくアクリル絵の具を使うと同時にキャンバスを自製した。1970年代にドイツに行き、和紙に墨で書こうとすると、大作の場合、逆に水を吸いすぎて書きづらい。そこでアメリカの経験により綿キャンバスを使ったが、墨に合う下地塗料がない。その時、たまたま日本語を教えていたドイツ人のクレッセ氏は、大手化学メーカーのバイエルの技術開発担当で博士でもあった。このような偶然が重なり、この一見和紙のような下地の作品が開発されたのだ。これは画期的な方法であるがその後、誰もこのやり方をしていないようだ。ぜひ、このやり方を広めたいと思っている。
     この巨大な二枚の絵はベルリンのソニーから寄贈されたものだ。ソニーの盛田昭夫社長と輝子が出会ったのはデュッセルドルフだった。当時この地には多くの日本人ビジネスマンが西ドイツ経済の中心地として訪れていた。二人とも1921年生まれで当時57歳。盛田は、異国の地で頑張る輝子の姿に共感したと推測する。ソニーのショールームで平松の絵画は展示される。この二枚の絵の詳細な経緯は不明だがソニーの手元にわたったようだ。ベルリンのソニーのアンナ・ニーマイヤー氏によると、ミュンヘンで展覧会に出品された後、ベルリンに来たという。昨年の末、2016年、絵のいきさつを知らないアンナ氏より照会のメールが美術館に届き、ソニーのご厚意により当館に寄贈され里帰り?を果たした。
     盛田昭夫を敬愛し会社のモデルとしていたアップルの創始者、スティーブ・ジョブズは禅に傾倒していたといわれる。戦前、日本に居住していたドイツ人のオイゲン・ヘリゲルが上梓した「弓と禅」は彼の愛読書だったという。弓道家のヘリゲルによると、弓を射るものは弓にならなければならない、と教える。平松の禅の立場もまさに同様だ。書画を書くとき、忘我となり、そのものと一体化することにより書画を書く。そのために書く前に瞑想し、無我となり、書くときは何も考えずに一瞬で書く。
    さらに輝子の作品は書であるが従来の書ではない。輝子は従来の漢字という文字にこだわらず、自分で表意文字を発明する。例えば「祈り」の作品は両手のイメージで作られた。さらに細かい、薄墨の使用、二度書きなど書のタブーにはまったく頓着しない。そもそも前述のように和紙を使わない。
     アメリカではいち早く水性のアクリル樹脂絵具の特質に着目しただけでなく、和紙にアクリル樹脂を含侵させた。それはまさに日本画、洋画の区分を破壊した。同様に今回の書は、書と絵画の区分も破壊した。かつて輝子がアメリカに渡った動機の一つに、坂田一男師が輝子への私的な手紙で嘆いた日展王国岡山への嘆きがある。しかし問題の本質は日展そのものにあるのではない。問題は日本社会の、あえていえば日本人の閉鎖性、事大主義(自分の信念をもたず、支配的な勢力 や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度・考え方)、権威主義であった。
    輝子は何も言わず美術界のそれらを破壊した。

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  • 2017/2月19日~3月5日     月火水休館 PM1:00~5:00

2017 輝子 「墨」モノクロ

 

宇宙あらし

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