2021/10月7日(木)~ 10月24日(日)
大きな作品で御覧いただけます
クリックしてください
左3枚「覇者たちの想い-凍結-」
2021 (油絵、アクリル・アルキド樹脂絵具) 1,620×3,909
「Temperature015」
2021 (顔料、岩絵の具、アクリル、アルキド、 ポリエステル布) F120(1,950×1,303)×2
「Temperature007」
2021 (顔料、岩絵の具、アクリル、アルキド、 ポリエステル布) S30 (910×910)
「Temperature009」
2021 (顔料、岩絵の具、アクリル、アルキド、 ポリエステル布) S30 (910×910)
「Temperature016」
2021 (顔料、岩絵の具、アクリル、アルキド、 ポリエステル布) F120(1,950×1,303)×2
「Temperature016」
2021 (顔料、岩絵の具、アクリル、アルキド、ポリエステル布) F120(1,950×1,303)×3
「BEYOND DESCRIPTION」
2021 (油絵、アクリル・アルキド樹脂絵具) 1,600×5,460
右4枚「覇者たちの大移動」
2021 (油絵、アクリル・アルキド樹脂絵具) 1,620×5,212
左3枚「覇者たちの想い-凍結-」 右4枚「覇者たちの大移動」
2021 (油絵、アクリル・アルキド樹脂絵具) 1,620×9,121
山田 ちさと 作品
一ノ瀬 智恵乎 作品
程波 テノール
拡大部
拡大部
拡大部
「断面・線 (部分)」
※ 展覧会の様子がパノラマでご覧になれます
山田 ちさと 会場
一ノ瀬 智恵乎 会場
一ノ瀬 智恵乎 山 田 ちさと
八 覚 正 大 (詩人)
宇フォーラム美術館二階の第一室が、一ノ瀬さんの絵画空間だった。とにかく壮大な感がある。まず右の壁を埋め尽くす大作「覇者達の想い―大移動」(4枚)「覇者達の想い―凍結」(3枚)、多くの馬、建築物、そして様々なできごとが時代の中を流れていく……さらに凍結した氷河を抜けて新しい展開へと生起していく。この壁は、かつて田鶴浜洋一郎氏が、物言わぬ壮大な砂丘の作品を飾った記憶が蘇る……あの時は、まったく砂丘だけの壮大な静寂に包まれ思わず立ち尽くしていた……。
一方今回の一ノ瀬作品は、その流動感の豊饒さに圧倒されたという気がする。それから奥の壁には「覇者達のゆめ」01,02がある。大きな建築のその骨組みを活写した感のある見ごたえある作品だ。
そして左手の壁には「BEYOND DESCRIPTION」――かしまかずお氏が「戦禍の歴史を超えて生きる勇気」と題して優れた解説を書かれているが、まさに、「ユーラシア大陸の治乱興亡に眼差しを向け」た、壮大な作品。至る所に無数の馬たちが走り犇めき、何十ものアーケード、またコロセウム、中国風の建築物、それらの多数を包むような円穹の大屋根。さらにその画の随所に現れる、中心から六~八本の足が延びるような形(方角を示すような、ある意味足長グモのような)、これは何だろう……と興味を引かれた。地表空間の方向の示唆、更に事象を捉える認識の触手――これはやはり大きな歴史を捉えようとした〈叙事詩〉的絵画ではないかと思える。
一方、奥の第二室は山田さんの作品群。柔かな感覚が伝わってくる。それらは、すべてTemperature と題された作品だ。大きな花びらのようなものが画面全体を覆っている。特に入って右側の壁の作品は、対称形に二枚ずつ配置されている。しかしよく見ると、その対称性はどこか崩れている、そこに縛られない何かが感じられるとともに、我々が持つ肺や腎臓や……といった二つずつある臓器も、左右対称でありながら、完全な対象であり得ないと思い直したりする。
作品には上部と下部に水平線のような、或いは地平線のような線が、背後にある……それらは何なのだろう。今回作者と対話できたが、その感覚的な抽象表現への明確なコメントは無かった。むしろ作者自身、どこか楽しみながらそれらの色を弄り、ゆったりほんわり、自ら感じる体温をあまり意識化せず展開して行ったのではと思われた。とすると、背景に見える地平水平線はどこか舞台のようであり、自然というより、もしかすると我々が生きる社会という生活時間場の区画だったりと、少し無粋なことを考えてしまった。ともあれ、描かれている抽象物は作者の自由を載せて憩える〈何か〉であろう気はする――。
宇フォーラム美術館 館長 平松朝彦
生起する光景展は一ノ瀬智恵乎、山田ちさとの両氏によるものだが、中身はかなり違う。
一ノ瀬氏は一言でいえば広角的な視点でのパノラマ的な絵画。
山田氏は逆にミクロ的にものがアップされる一方、四隅に地平線的なものがある。
作者は二人とも多摩美術大学日本画科卒業である。卒業後、日本画をそのまま描いている人は少ないと思うがこの二人もそうだ。
まず一ノ瀬氏の会場では二つの大作が観客を出迎える。油絵の具も使い、一見、画風は洋画である。少し前までは完全な抽象画を描いておられて、具象を描くことに抵抗すらあったようだ。
「覇者達の大移動・思い」は100号7枚、幅約9.1m、「BEYOND DESCRIPTION」は幅約5.4mの大作だ。前者は制作時期がずれている2作の合作となり題名は二つあるが覇者がテーマとなっているので一つの作品と考える。石造りのアーチの建築物が縦横に複合して描かれていることが目を引く。それらの建物は東洋と西洋のはざまのトルコあたりの建築物のイメージか。そして下半分には馬が走り回り、白い水が画面各所体に噴出している。左は凍結した景色だとも。描かれている建物のサイズも視点も意図的に複合しバラバラである。パノラマというか大きな屏風というか一点透視法ではない構図はかつての中世の洛中洛外図などの絵巻を彷彿とさせる。
走る馬は画面にダイナミックな動きをもたらしているがこの馬の表現に感心してしまった。
かつての戦国の絵巻には馬も登場したがこのように疾走する馬は少ない。アルタミラ洞窟遺跡の壁面に生き生きと描かれた牛や馬たちは一色のシルエットで似ているが疾走していない。シルエットで描かれた走る馬は、油彩なのかアクリル系なのかわからないが、かつてのたらしこみなる俵屋宗達の規則正しく墨により一筆で描かれた空を舞う鶴を彷彿とさせる。この馬は作者が日本画出身だから描けたのではないか。
覇者という題名にもかかわらず人がほとんどみられない。西洋画の考えであれば当然人が主人公のはず。
我々は寂寥感が漂う「光景」を客観的に観ている立場となる。松尾芭蕉の「夏草や、つわどもが夢のあと」という俳句が浮かぶ。
無人ということは「滅び」、東洋思想の無常観ということか。それは後者の大作も同様だ。こちらは海外のポーランドでの展示のために作ったものでポリエステルの布に描かれ分割して巻かれるようになっている。こちらはマットの金色の下地色に黒で描かれ、さらに金箔が画面にちりばめられていて土佐派のやまと絵のようだ。油彩は使わずに左にはアーチ状の構築物、右には瓦葺の東洋の建物があり西洋と東洋の都市と文明を表している。これも巨大なパノラマの絵巻のようだ。
いずれにしろ最近の美術界ではあまり目にしない大きな構想と歴史観をもったダイナミックな作品。この大作はそうした意味で傑作だと思う。
補足だが、こうした大作の扱いは注意が必要だ。パノラマ、絵巻の類は普通の図録写真では部分が小さくなりすぎて絵がさっぱりわからない。
長谷川等伯の松林図しかり。わかるためにはどこを取り出すか、ということになる。実物を見ないとわからないのでどこかで常時展示できるのが一番望ましい。ネットであればパソコン画面を拡大する手もあるが。
一転して山田氏の「Temperature」シリーズの会場は、クラシカルな一ノ瀬氏と対照的にモダンで明るいピンク色で見た人は浮遊感や幸福感に包まれる。
一見するとイメージは大胆に花を画面いっぱいに描いたアメリカの現代女流画家、ジョージア・オキーフを思わせるが対象は花とは限らない。作者の説明によると題名の「Temperature(温度)」は有機的、生物的なものでもある。一ノ瀬氏の作品とは逆にミクロな視点を拡大した世界か。大型化しながら対称形の二枚組は生物の持つ対称性にも通じる。三枚組の作品も見ごたえがある。
さらによく見るとそれはかつての1950年代末頃に生まれたアメリカのシミ派の画家、例えばフランケンサーラーのように濃度や色彩が無限の諧調により画面は複雑化していることに気が付く。
作者によると今回の「Temperature」の作品も意図的に布地にしみ込ませたのだという。
ところで当館の設立者の平松輝子が、1960年代にニューヨークで発表したアクリル絵の具の作品群もシミ派だった。意図的に和紙に色をシミさせる技法は水墨画の世界に通じる東洋のものだ。なぜなら水墨画は、礬砂で滲み止めをしない場合、薄い和紙は水を吸い込み、滲む。
山田氏の作品はアクリル・アルキド樹脂絵具、岩絵の具を使い綿布に描いているが、かつての近世美術の諧調の豊かなたらしこみの草花図やさっばりとした水墨画の世界に通じる。
両氏の今回の作品群は確信に満ちている。そして両氏の展覧会は西洋画と日本画という境界を超え、さらにいえば西洋と東洋が絶妙にミックスしているのは日本画出身者だったからだろう。
今回二人展という形だが実質的にはそれぞれの個展。最後に、今回の展覧会の企画で尽力していただいた望月厚介、大橋紀生両氏に感謝したい。