アートフェスタ 2018

  • 期 間 2018年 9月16日(日)~23日(日)
    レセプションパーティー、23日 午後3時~

  参加者(敬称略)

青山穆  雨倉充  伊藤滋雄 臼井由美子 小幡海知生 木藤恭二郎 木藤恭子熊倉伸代  酒井裕美子 笹岡慶鳳  塩見京子  瑞慶覧かおり 高橋将行  高橋真理 津島恭子 中里紫泉 中ぞの蝶子 長谷川博 八覚正大 原田丕  原田光代 日吉恵理子 平松輝子 平松朝彦 ペーター・トロイ 松本隆一 三木祥子  宙子 望月厚介 和田祐子 やまぐちやすこ  リン・チャーチル山本史子 矢崎治彦

RYNCOさん、成田千絵さん

ミンチアさん

成田千絵さん 、空豆さん

空豆さん

会 場 の 様 子























 










  •      宇フォーラム美術館 アートフェスタ2018
  •                                      平松 朝彦
  •  暑18回目のアートフェスタ。日本語で芸術祭。作品を作ることは大変な苦労を伴うことであり完成すればそれを祝う。やはり作品は発表するもの。この展示にあわせて制作された作家にとって展覧会はハレの日であるからお祭り。まずは作者の方々の労をねぎらいたい。
     そして本展の特徴は二つ、ノージャンルと無審査。今回の展示のジャンルは洋画、日本画、墨、書、版画、写真、立体、カッティングアート、本、そして詩、都市計画。そしてスネークパズル。
     パリのドートンヌ展には詩も建築もある。(ドートンヌ展にル・コルビュジェは「輝く都市」という都市計画を発表。というわけではないが結果としてスペースが空いたので私も参戦)。だから本展は日本で唯一ジャンルではドートンヌと同じ。私は2014年にドートンヌ展に行ったが本展は無審査なのに、ドートンヌ展と同じくらいのレベルと思った。だから本展はドートンヌ以上の奇跡。今回、ドイツ人とアメリカ人も参加し国際展に。リンさんとペーターさんの絵の共通点は感情を絵にしたこと。それは抽象画の原点。その他一人ひとり絵のテーマは異なる。一人ひとり話を伺ったが誌面に紹介しきれず、八覚さんにお任せすることに。
     会員でないある作家のお客様が展覧会を見たあと一言「今日はカルチャーショック」。何よりある会派に属しているその方にとって、「先生」というヒエラルキーのない展覧会に驚かれたたらしい。
     アートフェスタ展の由来について一言。画家、坂田一男は「新しい絵」を描けといった。そして、ドイツのクンストフェアラインも「新たな絵」がスローガンである。1949年、坂田一男は戦後、日本で初めて (*妹尾克己. 元岡山県立美術館学芸課長による)の前衛団体のAGO岡山アバンギャルド文化協会を作りAGOを始めた。文化協会はドイツ語でクンストフェアライン。
     たくさんの絵を見てくると経験により目が肥えてくる。審美眼は、遺伝と見た絵の経験で培われる。だからこそたくさんの絵を見る必要がある。多くの日本人は画家とはどこかに所属するものだと思っている。日本の美術界は、徒弟制度で先生の真似をすることで、右見て左見て真似して学ぶこと。それもまた一つであり、あえて否定はしない。しかしそれではいつも仲間の絵だけみることになり、世界が分からず、新たな絵は生まれない。一方逆に、絵は自己表現であり、自分の絵について批判されるいわれはなく、他者の絵を見る必要もない、というタコ壺タイプの人もいる。あるいは最近流行の絵はどれかと考え、そういう絵を描こうとする人もいる。新たな絵を模索するためにも「今の絵」を展示するドイツのクンストフェアライン制度は存在する。
     今年は新しい人が多く新鮮であった。展覧会に参加する意味は単に展示するだけではない。お休みされた方も来年はぜひご参加ください。そして今年もクロージングパーティーはすごいことに。音楽の部の会員(?)の成田千絵さん、空豆さん、さらにハプニング的にRyncoさんは美声で熱唱。ミンチェアさんの華麗なダンス。そして名物司会の八覚さん。皆さんアートフェスタを盛り上げていただき感謝の言葉しかありません。

         参加者(敬称略)
  •  ・青山 穆  ・雨倉 充  ・伊藤 滋雄 ・臼井 由美子 ・小幡 海知生 ・木藤 恭二郎 ・木藤 恭子   ・熊倉 伸代 ・酒井 裕美子 ・笹岡 慶鳳 ・塩見 京子  ・瑞慶覧 かおり ・高橋 将行  ・高橋 真理 ・津島 恭子 ・中里 紫泉 ・中ぞの 蝶子 ・長谷川 博 ・八覚 正大 ・原田 丕 ・原田 光代     ・日吉 恵理子 ・平松 輝子 ・平松 朝彦 ・ペーター・トロイ ・松本 隆一 ・三木 祥子  ・宙子   ・望月 厚介 ・和田 祐子 ・やまぐち やすこ  ・リン・チャーチル ・山本 史子 ・矢崎 治彦



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  •      宇フォーラム美術館 アートフェスタ2018
  •                                      八覚 正大
  •  暑い暑い酷暑猛暑の夏。台風も来て一瞬涼しくなってまた暑く……。でも、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な心身をもつ宇フォーラムの会員諸氏と、たとえ大地震が来ても平然と立ち残るであろう美術館によって、今年もまた恒例の会員展アートフェスタが展開された。それだけでも大いに喜ぶべきこと。
     毎年壮大な葉茎を広げてはほとんど根元から伐られ、また夏の間にここまで伸び広がったかという芭蕉が、台風でだいぶ梳かれたとはいえ見事な扇を打ち開いて迎えてくれている。道路を挟んで、敷地を細分化した戸建てがまだ客を待っている。そこにどなたか引っ越されたら、毎日宇フォーラム美術館に数歩で通えるのだが……あ、ふだんは、木金土日だった(アートフェスタは会期中休みなしだったが)。
     今回、毎日通い詰めて、かなりの作品を内的対象化したので、お名前の「あいうえお順」で感想を述べてみようかと一瞬思ったが、やはり説明には導線に沿った方がよさそうな気がし野心は捨てた。

     高橋真理「めぐりあういのち」 16枚の写真が並ぶ。上段の猫の写真二枚がまず目に入って来る。特に左の白は目が鋭い、うちの飼い猫にそっくりだ。その他、花、白鷺、作者が写真集も出された白い馬、葉、実、蓮の花……被写体の生き物たちの気が、跳ね光り飛んでくるようだ。作者の暖かくも細部を見逃さないまなざしと、動物や植物との愛の関わりが写真から見えてくるようだ。

     ペーター・トロイ「Whaaaa」「Caramba」 のっけから解釈の難解な作品に出遭ってしまった。今回初参加のドイツの作家。現在は長野県須坂市にお住まいと。合気道もやられ、かなり日本の精神的風土も体現されてきたよう……ただし、作品はオリジナルな紙にクレヨンで描いた抽象画。色が柔らかい、しかし形が捉えどころの難しい、柔道で言えば袖や襟のような掴む所が見出しにくい……古代の壁画? 深層心理? でも「Whaaaa」は、ワーッだろうし、「Caramba」は辞書で見ると、へぇ、えっ、とかの驚き、喜びの表現とある。しかしでも、画は叫びとか驚きの感覚でもない気がする。前者は形があったものが吹き飛んで断片になった感じ。後者はう~ん……毎日眺めだんだん分かってきた気がした。ふつう画は地(背景)と図(形)があり(時にそれが反転することもあるけれど、そこから見る側は意味を掴んでいるように思われる。でも特に後者は周りの薄い緑の地、中の赤い図というように認識できず、画を見るように見ようとしても、撥ねつけられるわけではないが、見た――という気持ちになれないのだ。おそらくその感覚を作者は狙っていて、意志を超えた少し深い部分で見てほしいと言っているような……武道には対象と環境を同時に捉える八方目という見方もある。
     
     山口保子 絵本「なく木」「ザトウクジラ」 前者はロンちゃんという主人公がアジアの国を尋ね、木を持ち帰って植える話。ほのぼのとした優しさがある。後者は、ザトウクジラの赤ちゃんが危機に出逢うが、それを抜けて行く話。どちらも手書きの一冊だけの本。それだけに印刷より思いがこもっている気がする。

     瑞慶覧かおり「琉」 フレスコ画家の作者。今回はまさに龍がそこに生きている感覚の作品だ。
    青の背景と、黄色の身体と、気の炎の赤と言ってしまっては元も子もない。それらがバランスよく混ざり合い、時にピンク色にもなり、岩彩の粉が光り、何よりそれほど大きくは無い横長の枠の中で龍が撥ね満ちている感覚なのだ。今まで白鳥とか、花とか……美しいものを端正に華やかに描く才気のある技巧画家と思っていたが、今回はそれを損なわず、さらに勢いというか凄みというか、なかなかの面白さを見せて頂いた。さらに眼を凝らすと生きたタッチが匂って来る、ワンダフル。

     酒井裕美子「つばさをたたんで」「大きい家」「黄金の春」「聖なる町の記憶」「魚の歌」「バロックまたは貝の眠り」「古い星」「古風なテーブル」 一つひとつに思いが込められた作品群だと思う。中央の、中では大きな「聖なる町の記憶」に惹かれた。中世の、広野に囲まれた空間の中の都市、門から入り、道で繋がる広場があり、そこにはロバを引く者、旗をもった衛兵、手を繋いで踊る女性たちがいたり、行列、そして尖塔を持つ城へ入って行くものたち。それらを俯瞰した構図。何か動物の内臓をちょっとした食物がまばらに通って行くような感覚が面白い。対象の捉え方に独特な距離感がある。そして目の少し悪くなった小生は、何度目かの後、その道を取り巻くのは広野でも荒野でもなく、なんと無数の家々であることに〈気づかせられた!〉のだ。聖なる町は、厖大な家々の上にそこだけ真空な内臓のように、ひゅるりと通り存在する(それは作者の創作なのだが)、不思議な空間だ。それに中世の町? にしては三階建てのビルみたいなものもある。毎回、点数が多く、額に独特な趣もあり、中身をしっかり見ていなかったことに気づかせられた! どの作品にも物語が詰っているのだ。

     三木祥子「Symparthy」  まず表題にrが入ってしまっている? と思ったらArtを掛けたとのこと、なるほど。花のような葉のような画像が壁に踊っている。また中央に布が掛けられそこにも……。何か淡く爽やかな空気が流れているような、そんな気分にさせてくれる環境芸術の世界……。

    窓辺の下に、化石の板がある。オーソセラス(直角石―Orthoceras、オウムガイの絶滅した仲間、長円錐状の殻を持ち、古生代のオルドビス紀から三畳紀にかけて生息、アンモナイトのように巻く前の進化の段階)が何百匹も詰まっていて、何億年かの時間も一緒に〈いまここ〉にある。グラインダーは無いので、かつてプラスティックの三角定規で仕事(教職)の合間に表面の蝋を剥がした労を思い出す(笑)。中途半端なシミのまま、宇フォーラムの好意で一年に一度、日の目を見させてもらっている。薄い板だが60キロくらいは有りそう。持ってみたい方はどうぞ。空豆さんに担いで踊ってもらうのも一興か?(会期後半に館長が小粒のアンモナイトを置いてくれた)

     伊藤滋雄「FUZUKI」「ヌード」「自画像」 女性の上向きの顔三連、ふづき? 文月? あるいは女性の名前かも? 豊満なヌード、少しドキッとさせられるその存在感、そして隻眼の自画像(一隻眼とは真実を見抜く目とか)。今年も繰り返すが、それぞれに投影された作者の心の自画像なのかもしれない。

     木藤恭子「紙の姿」 様々に和紙を色づけしたり、貼り合わせて間を抜いたりと、工夫を凝らした作品群の、写真四葉を貼った作品。実際の空間の中で拝見すれば空気や風がいろいろ感じられそうな気が。

     木藤恭二郎「ページ」 一見して、すっと美しい作品だと感じさせてくれる。以前はもう少し地味な暗色系ではなかったか……。四、五枚の層になっているのか、下は薄い赤、その上に似た感じの濃い目の赤、そして手前にさらに濃い赤。紙独自の色調と重なりによるものと、微妙な推移が音楽のようにも楽しめる優れた作品だと思う。少し前に展覧会をされていたようで、きちんと拝見しておけば良かったと後悔している。下の薄い色が重なりを前面を押し出させている……しかし、また翻って、一番下の層へまなざし(意識)が戻っていく――その往還を楽しませる作品とも言える。

     長谷川博「遠くからのたより」 この作者の技法を理解するのには時間が掛かった。否、まだ完知してはいない。おそらくボールペンを駆使して、部分部分を克明に塗り、それを重ねて最後に残った白い線が、一見描かれたように見えるという不思議。その丹念な長い時間の行為の片鱗でもこちらがやってみなければ、分かった――などとはいえない、そんな技法であろう。ただ、今回少し物足りなかったのは、既に銀座のOギャラリーで、十数点集まったその凄さを観てしまいそれが基準になっているからなのだろう、観るとは贅沢な行為である。それにしても、個性というものの一つの結晶がこの作品には感じられるのだ。

     熊倉伸代「Untitled」 今回も灰色の画面、大きな渦巻が中心にある。下には葉のような堆積も。渦巻きから伸びているのは花茎か。作者は哲学的な見解を持たれていると思う。これが何を象徴しているのか……ところがこれは水の渦巻きを描いたものだったのだ。そして何とギャラリートークの時、「上下逆さにした方が動きが感じられる」と作者はその場で反転させて見せた。そのパフォーマンスこそ、作者の内面の渦巻きか。

     原田光代「生」 かつて同じ部屋の反対側の壁の中ほどに、似たような構図と色彩の作品があったように記憶している。その時、まだこの作者の描こうとするものが控えめな感じがした。しかし同じ色の混ざり合いと構図を持ちながら、画面が大きく広がり真ん中に耀く白が生まれ出そうとしている。それは命の輝きといえる……。カットされたふんだんなニンジンと青菜とワカメの大きな鍋の中のスープに白い卵が浮き出てきた、掬って食してみたい、と言ったら怒られるだろうか。

     八覚正大「スネークパズルショー」 今回はアフリカものでもアジアのものでもない。ルービックキューブの後、一世を風靡したスネークパズル。それがダイソーで売り出されたのを機に、まだ性懲りもなく関わっている不登校生徒たちにと、いくつか買って遊び始めたのだ。
     すると、一本の棒になったり、球体になったりした。そこで終わりかと思ったら、球体がなんと人の顔頭に見え始めた。それをスネークマンと名付けて展開したのが今回の展示。さらに、見て、触って、曲げて、作って……面白い形になったら、ネーミングをして、飾って――とリアル「参加型」のインスタレーションにした、つもり。
     やってきた子どもたちには受けたよう。百数十個の展開。ただ、これは高齢者の脳味噌にも良いよう。言葉の「百文字楽文」のみならず、「大人の算数教室」と題して国立NHK学園で実践してもいるのでどうぞ(宣伝になってしまった)。ともに日本の高齢者社会(自分も参入して行く)を救うと確信している!

     小幡海知生「マンダラⅡ」「楽しいねⅡ」 前者は指が木の幹、のような掌に、太陽のようなマンダラが綺麗だ。花も舞っている。後者は、作者ならではの魚のユーモラスで楽しい世界、とにかくもう、サカナクンでいっぱいなのだ。

     高橋将行「それはどにちはいやだけど」 今回の内容は、童話でも少しシビア。学校も家も居ずらい子どもが「からだこころが、ふたつになっちゃう」と、えっ、解離性障害……と思われたり。でも外の世界で健康さを回復し、「しっかりたべて、おとなになって、ラーゆのはいった、あぶらそば、おなかいっぱいたべたいもん」というラスト、主人公もこちらも救われた。

     日吉恵理子「十年」 少し疲れた感じの女性の、胸元が露わな作品。今回初出品の方。何かを訴えているのだ。何を……ドレスの赤がそう感じさせる。そしてソファの霜降り肉のような白の感触がエロスを湛えている。ギャラリートークで、作者は癌になったことを告白された、そして十年経ったと。命の重さを訴えていたのだと伝わってきた。
  •  雨倉充「Relation」七枚の小画面を横に繋げてある。何の模様だろう?……それは多摩川のとある道路で自転車走行中に見た、路面のタールの亀裂だとのこと。それがまさにドローイングに見えたのだと。剥がして持ち帰りたかったが写真に撮り和紙に写し取ったと。前回の球形ブルーボ―ルの頭部の作品からは大きく変身した感じ。端正な纏まり感もあり、日本画的感覚にも通じるような。これからどのような展開になるか楽しみだが、四角い画面のそれぞれが下方に伸びて行くような気もする。あるいは……。

     和田裕子「三友図」「月の聲」 前者は東洋画で、松竹梅を描くものと。端正な美しさが感じられる。松聲の大海原をこえゆけり と自作の句が。

     臼井由美子「Inventions 即興曲風の小品」 五作展示されている。繊細さと俯瞰的な要素とを併せ持つ抽象画。見ている内に、それを横から見ると風景画に見えるものが数点。作者に確かめると、まったく意図はなかったと。右下の作品は、右に首を傾け白い雪の平原に向こうは山と空のように感じられていた。しかしまた首を左に曲げると手前が大地で、地平線と白い空が見えてくる……不思議な面白さが感じられた。

     宙子「週末のたのしみ」「水鳥」 前者は土日という漢字の象形文字を沢山(一年間以上の分)書き重ねたと。大きな方は、それに紙の端を額のように立てて薄い箱のような……中に墨の文字の円形が重ねられ紙片に載って水田の一角に無数の波紋を溜めたような感覚。後者は幾つか描いたものをコラージュしモザイク状に。作者はそれを展開して行きたいと。

     山本史子「種蒔く人」「Dancing tree」静謐な美しさを感じさせる、宗教画的な感覚。人物は十字架のようで白い造形的な額がそれを引き立てている。後者は少し暗い色(柿渋を用いたと)だが、下方から樹液が吸い上げられる感覚がけっこう迫力を感じさせる。上部の円形は太陽なのか、大きな実なのか。

     松本隆一「A」「B」 Bは筒状の幾つかのものに細めの金属棒が通っているように見える(でもそうではなく、筒状のものに両側から金属棒を差し込んだと)。少し延ばされた「B」の文字の形に見える。Aは幾分曲がって延びる棒に釘のようなものが交互に直角に刺さり、上部の板にくっ付いている。四角い頭の蛇の骨?……延び過ぎてしまった文字A? 共に色彩に喚起されるものがある。でも、AもBも当座の命名とのこと、意味を付けたり解釈したり……から遠く離れたものをということらしい。

     塩見京子「T嬢」 毎回、華もあり凛とし、さらにどこか強い個性を感じさせる女性像をえがいている。今回はモデルのTさん。青い衣装の女、髪がフワッと広がり、掛けている身体が動き出しそうな感じ。毎回モデルにほれ込む作者、そこに作者の分身が投影されているということだろう。

     原田丕「地の糧」 吊るされている実だ、灰色の。時の中を抜けて乾燥した実の驚くほどの存在感、それを作者はずっと追求してきているように思われる。ある時間の長さを超えて、物が、とくに生きていたものが存在し続けると、そこには我々の日常的意識を超え何かが孕まれて来る気がする。時にそれは霊的なものと捉えられることもあり、またその中から再生の種子が発芽してくることもあるだろう。灰色に固まったかに見えるこの実のところどころに、微かな血の飛沫が見られないか?

     リン・チャーチル 水色の飛沫、青の飛沫の二点。タイトルは付いていない。自由な感覚の飛沫、イマジネーションとのこと。明るさ、楽しさ、華やぎ、ひらめきのようなものの。音楽的な即興表現とも。

     青山穆「心経」 今回もまたその発想と行為に驚かされる。墨点を重ねる、まさに墨の点が遠くから見れば文字のように置かれている。上から下へ、右行から左行へと。それが何十枚も置かれている。たぶんそれは一部に過ぎず、何百枚……と描かれたに違いない。〈一筆一筆と墨点を連ねて打つ 緊張の一呼吸のこの先に何の期待の有りようはない 願わくは天空へ送りたい〉と。この姿勢の素朴にして純なる思いは、行為の尊厳を凛として伝えてくれる。アンリ・ミショーのムーヴマンを東洋的に超訳すると、このような墨点にも繋がるかもしれない。一枚頂いて眺め続けて見てみたい。

     中里紫泉「花に舞う」 梅の幹、枝、落花……が抽象的に墨で描かれたような掛け軸、動き、バランス、そして墨の滲みの膨らみが、実に見事である。

     矢崎治彦「我がマイホーム」「ぬるやかなトーブたち」「夜の啓蟄」「幻想の夜」「ピータンの夢①」「ピータンの夢②」「ボヘミアンハウス」 かつて、エッケンドニ村の人々と題して五十枚くらい並べられた時は、度肝を抜かれた。それに比べれば今回は七枚だ。しかしこの作者の一見版画かと見紛うような、込み入った闇の世界から溢れ来る無数の線が、一つひとつ描かれたと知らされると、驚かない人はいないように思われる。ある種強迫的に描かれているようでいて、ユーモアやウィットや諧謔の原形のようなものが満ち溢れている。今回飾られなかったが、陶芸の顔の作品を十幾つか作ったという。ぜひ拝見したいものだ。今回の作品の中では、「ボヘミアンハウス」というのがどこか新鮮にも感じられた。

     津島恭子「放つ」 青の世界の中に赤の闘いの痕跡が……いろいろな過去が詰っている感じ。中にピアノの鍵盤に見えるものもあったりする。さまざまなできごと、人間関係、感情の展開……。〈下手は粘る、上手は切る、名人は放つ〉――という言葉がある。とすると、作者は人生を放つ段階に到達されたのか、あるいはそんな願望を持たれているのか。

     中ぞの蝶子「Strange beat」 今回も見事な和紙の紙細工である。草原のような斜面に、矩形と台形の置かれた上部。特に矩形の中の模様はギリシア建築の彫刻のそれを翻案して和の美しさに転換したと。まだ刷毛で一閃したような潔い跡、網代網の模様など。下部は巻かれた赤い紙が半ば解かれ垂れ下がっている……工夫の感じられる端正な作品である。

     笹岡慶鳳「日暮らしの…」「夕月の…」 黒い縦長の紙が二枚(それらも一様ではなく隅で塗られている)、中央に白いスリットが入ったような地。そのそれぞれにタイトルの歌が白く達筆で描かれている。前者は〈日ぐらしのなく山里の夕昏れはかぜよりほかにとふ人もなし〉(古今集)。後者は〈夕づきの光まされりとぼとぼと山のこだまのかえるしずけさ〉(釈迢空)

     望月厚介「溶融―相変化B―R」(2017) シルクスクリーンの鮮烈な赤の画面。かつての積層として塗り重ねられたものから、溶融し、その内から溢れてくるものを見せ始めた一連の作品群の一つ。黄色の層が顔を出し、黒の斑が散見される。今年この同じ空間で、このシリーズの傑作大作を堪能しているので、長谷川作品と同じく此方の印象としては物足りないが、この作品によってその時の印象は再度喚起され直した。

     平松輝子「Green」(1970) 和紙にアクリルで庭の樹木が描かれ、内側から照らされたボックスになっている。このような作品も作られていたのかと、その多彩な表現の自由さと工夫を改めて感じさせられる。
    (平松注:この作品は1970年に三菱樹脂と共同で開発制作されたもの。和紙に透明アクリル絵の具で絵を描きアクリルパネルで挟んだもので中に照明器具を入れることを目的とした世界初の光る絵画である。輝子は後に「天の光を絵の中に」という本を上梓した。)

     平松朝彦「Tohhokudaishinsai Ohtsuchimachi」「大槌町復興案」 前者はかつてその拡大された画像がこの館でも展示されたことのある、震災後の大槌町のパノラマ写真だ。津波が掃き流した後は本当に閑散としてほとんど何も残していない。空虚という言葉が響くだけだ。
     一方後者は小生も初めて拝見したが、建築家であり都市計画のプロであった平松館長の渾身の「大槌町復興計画」なのだ。そこには防波堤などはない。だから、十メートルだ、十五メートルだ、いやもっと高く……という莫大な経費をかけ、人心の安心だけを買うような無駄はなく、高層ビルを建て堂々と住み、万一津波が来ればすばやく探知して非難できる経路を作っておき、あるいは高層の上部へ避難する方策が取られているのだ(一階は駐車場で海水には素通りしてもらう)。
     我々は大災害に接すると、今度はそれを何とか防ごうという代償の気持ちが抑えられない。そこで意識の上での安全性を最優先し絶対の防護を考え、多大な経費を要して安心しようする。しかし実はそんなものは保証にはならないのだ。その証拠に、やがて日常の些事に紛れ目先の利益に戻ると(喉元過ぎると)忘れてしまうのだ。だから忘れた頃には何の防ぎようもなく、後で記念碑の存在を思い出すくらいだ。だったら、もっと機能的でかつ経費も少なく、そして〈いまここ〉での意識をどこか喚起し続ける方が、どんなに現実的か。平松作品はそれを如実に訴えていると思える。だがしかし、現実は……

     前年度の感想で「もう、この美術館とも、館長とも付き合いが長くなりつつある。そんな中で、今回は何かじっくりと腰を据えて拝見させて頂いた感がある。フランスの哲学者メルロ・ポンティの言葉を借りれば、〈住み込んで(habiter)〉各作者の思いを込めた作品群と対峙できた感がある。別に徒弟ではないが(笑)。」と書いていた。今回は、己の参加型作品が変化するので(参加者の手が加わり、またスネークマンの頭部が自然落下したりもし)、住み込むというよりできるだけ通い詰めた。
     その中で、せっかくなのでと知人たちにも声を掛け、場合によってはお連れしたりもした。また己の作品を理解してもらいたくて、知らない鑑賞者にも声を掛け、言語による説明解説をしたりした。それは芸術作品を鑑賞する従来の有り方からすれば、煩いお節介に感じられたかもしれない。しかし芸術行為が、ひたすら作品に賭け、創った後は鑑賞者に任せる、鑑賞者は己の審美眼でそれを自由に解釈する――という一見麗しい「芸術鑑賞理想論」は、どうも現実的ではないということに気付いてしまったのだ(個としての我々の審美眼はそんなに自立しているわけではないのだ)。芸術家は創った己の作品を今度は「ことば」で出来る限り伝えようとし、鑑賞者側は作者との対話の中で己の(半ば無意識の)「偏見眼鏡」をはずし目を開かれる……ということによって、より作品を理解できるようになると思われる(己自身がそれを何百回も経験した)に到ったのだ。芸術の根幹は孤高の探究以上に、コミュニケーションなのだ。
     それにしても国立のこのような場で、アートフェスタという形で、一期一会の〈いまここ〉を過ごせたことは、何とも言えない快さを感じさせる。最終日、作者が思いを語る有意義なギャラリートークがなされ、またパーティの会食会ではアトラクション(成田千絵さんのチェロの響きと歌、空豆さんの舞踏)が場をよく盛り上げてくださった。さらにLyncoさんの伸びのある美声も加わり豪華な饗宴となった。お三人に拍手、エールを送りたい。また、いつもながら館長ご夫妻の場づくりがあってこその催しだと感謝の意を強くする。
     作品を片付けつつ、来年のアートフェスタへ向けて会員諸氏はもう新たなスタートを切っていると思われる。我々は常に〈いまここ〉にしかいないが、それは常に更新され、けっして後戻りはしないのだから。