- 作者のコメント
作品発表から20年が過ぎモチーフとして取り組んで来た思いは「命」の継承です。
私は何故か描くたび・・・支持体に向かうたび・・・この枠の中から出たいと思います。 - このエネルギーが自分の作風になっています。
- 線で紡ぐ生命の形象
美術評論家 清 水 康 友
達 和子の作品から、イメージの基となった人体の動きや植物の育つ様の痕跡を探り出すのは、それ程困難ではない。
実際に造形化された人の体や植物は、幾つもの作品に見い出せる。
ただ人体や植物の形を追求するのが目的でない事は明白で、そこに宿る生命感の表出が重要なのである。
多様な描画材を用いて、板や紙に自ら内奥に胚胎する情感や思念をストロークを生かした線で描きだす、しなやかさと強靭さを併せ持つ線は作者の思いを反映、あるいはそれと連動して有機的な形を創り出す。
この自在な描線は予測しない形を生み出し、不確実さを孕む画面が思わぬ展開を見せ、増殖する形象は連続して振幅し、時に膨張する。この形象と形象とが互いの関係から”間”を生じた時、画面は一気に生命感に溢れるのである。
達の創出する画面は様々に変容し、エロチックでありまたユーモラスであるが、一時として停滞することなく常に活発で新鮮である。それは自身が存在する現在を見詰め、感じた思いをダイレクトに線描するからであろう。
変化し続ける作品は、彼女の内的世界の視覚化であり、それはWarmth of life(生命の温もり)の創造の軌跡に他ならないのである。
- 壮大なインスピレーション
宇フォーラム美術館 館 長 平 松 朝 彦
今回の展覧会の題名は「繋ぐ」だが、パネルも連結され巨大化されている。
達和子さんの絵を見た人が「わたしもこんな絵を描いてみたい」とつぶやいた。
今回の達さんの作品は確かに一種の痛快さを覚えるほど巨大だ。
特に「騒-三景」は長さ約5.7m、「騒」は長さ約4.5m、「騒-春の舞」は高さ約3.6m、幅約2.7m、「花になる」は高さ約3.6mにもなるから壮観である。
無論大きいだけではない。今回の「騒(2007)」と「夢唄(1998)」はコラージュだが、前者は多くの新聞紙を束ねて大胆に切断され、砂状のものがまぶされ、ボンドで固着されている。
後者は厚さが数センチある板状のものが大胆に張られているが、いずれも作者のコメントにあるように枠を超えている。その力強さはなかなかのもの。
当館の蔵書に「Destroy the picture(Skira Rizzoli)」というニューヨークの出版社の大著がある。その題名の通り、絵の枠を超えた著名作家の作品がたくさん掲載されているが、その中にあってもおかしくないレベルだと感じる。
今回の作品は、一言でスピード感があふれ、ダイナミックで壮大、そして軽やか。そうしたものを達さんは描きたかったのだろう。
当館のラウンジには達さんによるガラス花器の作品がある。そこには花の実のドライフラワーが二本、はかなげでかつ軽やかにさしてあるが、この花は最初からさしてあった。このドライフラワーが主役の花器。
もう一つの作品は古いペンキのはげかかったドア枠と思われる木片。
果たしてこれが作品としてどこがいいのか、ということだが、この捨てられた廃物は、しかし美しい。
この二点はわび、さびの日本の美意識につながるものではないか、と私は勝手に思っている。
目の玉の飛び出る美術館の高額な作品でなくても日常には美が満ちている。
達 和 子展 ー『繋ぐ』ーに
詩 人 八 覚 正 大
以前から名前はお聞きし、また青梅市立美術館などでも拝見していた画家の個展。その流動的な線と、命の湧出を謳うような感覚は伝わってはいたが、今回初めて大作群に触れ、己なりに言葉を返してみたい気になった。
宇フォーラムの二階の第一室、第二室と回った中で、まずその勢いに触れたのは「Work」と題された作品1、2、3だった。黒い塊がむくっと画面中央に顔を出し、そこから多くの飛沫が噴出している作品だ。
良く見ると細部にもそれぞれ何か描かれている気もするが(宙空に気が昇ったり、小さな人物がいるかのようだったり、血糊のような一閃があったり……)、とにかくその三作の勢いに感じるものがあった。
それから再び第一室に戻ると、十数年前の作品には、人物が何体も混じっているもの、線描のうねりの中にその時代の新聞の切り抜きが多数埋め込まれているものがあった(さらには板が貼られたり……コラージュ的)。
人物画像の方は実存的、新聞の埋め込みの方は社会派と名付けたくなるのを堪えて、その第一室の反対側の大作に目を転ずると、この美術館の長い壁を圧して、先ほどの人物たちが植物化し、その花や蕊の巨大化したものを十枚ほどの(不揃いに張った)ベニア板に直接描いた作品がある。
そして抉りだすように立ち上がってくる形(やはり花の雌蕊?)が二様に描かれた作品。
さらに二室の一歩手前の壁には、縦長の画面の脇に同じ長さの細長い画面が少しの間を措いて配置されている(その数センチのすき間が、徘句の切れ字のような空間の広がりを感じさせもする)。
そこから再び第二室に入ると、右手に七、八メートルはある横長の作品(これは空白も取り入れ、日本画的な感覚もある。ただ描かれ方は違っているが)、そしてこの宇フォーラムの奥の聖なる壁(と筆者が勝手に呼んでいる)には、今年になって描き上げられた横に畳二連、それを三段に重ねた広い画面の大作が圧倒してくる。
それは大きな花の内部を一見シンメトリーに開き見せた、美しさなど端から超えて、命の驚しさを開示してみせた作品である(今年になってから一気に描かれたらしい)。
良く見ると下部には人体の足裏なども見え、この巨大な花の断面の中に、人間の性さえ繋がり吸収されているような感覚を覚えてくる。
完全にではない対称形の対称線の中へ何かを呼び込み、花弁の広がりは逆に合掌するかのように空間を包み込み、そこからまた全方位へ命の迸りを開かせる、その頂点に目のない昆虫の頭部のような、くっきりとした雌蕊の始原が待ち構える――。
作者は何をねらい描いて来たのか?! おそらく人間の像が何体も絡み合う「関係」や、社会のさまざまな事象の騒ぎうねる「ダイナミズム」そのものを捉えようとしたのではないか、しかしそれをあからさまに声高にではなく、むしろ一見柔らかく控えめに描いてみせ、却ってそのなかに驚しい動きを混入させたのではないか。
だからこそ内側から湧き出すリビドー(フロイト的に言えば)を、整えられ用意された画布にではなく、無頓着にさえ見える紙やベニヤなどの支持体に、一見無造作に奔放に描き出していったのではないか。
そして描きながら画面を継ぎ足し、また脇に付け足したりする行為を生成的に生み出していったのではないか(作者は、そのベニヤの面の模様、継ぎ足した板と板との微かな段差、さらには展示している中での乾燥による歪み……なども、作品の内と考えているとのこと)
人間という「動物」にとって、立ち向かってくることのない穏やかで従順に思える植物の生殖の中にこそ、時を超えて生き続ける命のダイナミズムがあると、作者は思いを馳せ、込めたのではなかろうか。スケールの大きな、〈いまここ〉を拓いていくような「面白い」作品群である。
- 2020年 3月19日~4月5日
「夢唄」 ディテール
「騒」 ディテール
「騒」 2007 コラージュ アクリル 1.8×4.5
「夢唄」 1998 コラージュ アクリル 1.3×1.6
「騒-三景」 2012 アクリル ミクストメディア 2.7×5.7
「ドローイング1,2,3,」各1.6×2.8 2011、2016 ミクストメディア
マンドリン奏者 石川 篤子 氏 ギター奏者 望月 義夫 氏
清水 康友 氏 望月 厚介 氏 大橋 紀夫 氏 達 和子 氏
「騒 春の舞」2020 アクリル ミクストメディア 3.6×2.7
「花になる」 2015 アクリルミクストメディア 3.6×(1.8+1.4)
ディテール 一部版画
「Work2」 2020 アクリル 墨 1.3×1.5
オープニングレセプション
作 品
会 場 の 様 子
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