2021 レクイエム 展 の記録

     2021 レクイエム 展
   

2021/8月12日(木)~ 8月29日(日)

                     

      


会 場 の 様 子

※ 展覧会の様子がパノラマでご覧になれます























 

 

 

 

                    
                    宇フォーラム美術館長  平松 朝彦

展示室は二室だが、手前は平松輝子の関東大震災と二紀和太留の戦争犠牲者の惨劇の絵画作品、奥の部屋は死者の鎮魂の展示とした。
・奥の部屋の二紀和太留「永劫の月と海」は戦艦榛名で日本に戻る時、暗闇に浮かぶ月を描いたもの。
反対の壁には平松輝子「月光曼荼羅」が向かい合う。真言密教でいう「月輪観とは、心の中で月をイメージすること。月と自分が一体化し、宇宙とつながることでもある。
レクイエムのインスタレーションは二つで鎮魂のオブジェは私と平松啓子による合作。資料として終戦当時の二紀和太留の自筆の日記の原稿と海軍艦船喪失一覧図である。日記には特殊爆弾 (原爆) と日向の国 (宮崎)で米軍の上陸で玉砕する予定だった事が記されている。また海軍喪失一覧図で多くの船が多くの人を乗船したまま沈んでいることがわかる。
振り返ると当館が開館した1999年以来続けているレクイエム展は「アートによる世界平和」だった。
世界には戦争関連の作品がたくさんある。当館にもピカソの版画のゲルニカがあり、さらに末松正樹氏が戦時中、フランスで収容された時に描いた作品もある。
友人だった画家の金光松美氏はアメリカ籍であるにもかかわらず人種差別で戦争前に収容所に入れられ出所するために志願兵となり欧州の戦地に赴いた。
戦前、戦中生まれの多くの画家は戦争や悲惨な体験をした。当館の設立者である二紀和太留と平松輝子は1921年生まれで終戦時は24歳。二紀は熊本師範学校を卒業したが赴任したのは学校ではなく戦地であり同期の友人はほぼ戦死した。
平松は広島の隣の岡山で幼稚園の先生をしていたが親が特攻隊員で亡くなった子供も多かった。
二紀は終戦後、その戦争体験を抽象画で描いたが、その後それをアメリカのニューヨークに持っていき展覧会をした。これらの絵は1969年、ニューヨーク近代美術館のレンディング展に出品された可能性がある。
戦後まもなく二人は複数のアメリカ人と友人となったが、彼らには二人がニューヨークに行ったときには助けてもらい、当地の画家たちと友人となった。
さらに1960年代後半に西海岸で平和反戦を求めるフラワームーブメントが起きた時にはロスアンゼルスに住んでいた。帰国後の1980年代に戦友のレクイエムの絵を描き始めた。売るためではなく、戦友を供養するためだ。そして絵を通じて世界平和を祈ることが画業となった。
・平松輝子は、1921年に浅草藏前で生まれた。2歳9ヵ月で関東大震災に遭遇し、父を失う。1960年代の作品は、関東大震災の絵である。
ニューヨークで個展した絵は黒煙と炎が大空を覆う様子。廃墟は空に舞いあげられ堕ちた人間がそのまま黒焦げとなった作品。
今回展示している様々の関東大震災の絵画がアメリカのデビューに繋がる。不思議なものである。
8月15日に、中野妙香、關口奈美、新屋頼子さんが来館され、新屋さんの音楽で中野、關口さんに舞を奉納していただいた。3人に感謝します。
   浸透 ( osmosis ) 展を対話しつつ観られて
                                 八覚 正大

 今回も四人の作者たちとの「対話」ができた楽しさ、喜びに触発され書かせてもらうことにした。参加対話型美術鑑賞こそ、見る側の一方的主観的まなざしを超えて、作者とのダイアローグによって、〈いまここ〉で開かれた〈まなざし〉を通し、「生きてそこにある作品たち」に触れ得る得難い鑑賞法であると――最近は確信してきている。
 
 まず、話せたのが日比野 猛さんだった。「 浮遊する顔料のための交響曲 」というタイトルの付けられた作品。俯瞰したグランドピアノの形を四等分し、そこに木枠の縁を付け、内部に顔料を注ぎ込み、その入り混じる様相を作品化したとのこと。
今回の展覧会タイトルを体現した作品と言えよう。またそれは今回の自らを含めた四人の作家へのオマージュのようなものでもあると。
色の混じり合う美しい海のような象限、二項対立の象限、円形の形の見える象限、そして作家自身の、弧を幾重にも描くような作品……。
今回それらにはまだ乾いていない部分があり、ねじ釘がぽつりぽつりと刺さっていることにも気が付いた。作品の下には管が繋がっていて、さらにプラスティックのカップがたくさん置かれている。ねじ釘は抜くことができ、そこから絵の具が管を伝って流れカップに溜まる、それを他の象限に再利用することもできるのだと……。
コンパクトな小空間ながらも、それは地球の水分の循環を大気方向と地下へとの両方を捉えているのでは~と感じられた。
また顔料の入った瓶がずらっと鍵盤のように並べられてもいる。様々な色が混ぜ合わせられたようだが、総じて地球の表面のように青、緑、白……系の美しい表層を感じさせられた。
 
 それから、山﨑 康譽さん。「Marks u-2021」と題された作品群だ。黒い縁取りの楔が、上から下に垂直に撃ち込まれたような、迫力の感じられる絵画作品群だ。
作者はかつて、弥生文化的な丸みを帯びた穏やかな感触を体現した作品をつくり、自らもそう生きて来た……しかし、最近本質的には縄文的な性格だったのではと自ら気づき、このような形・痕跡をマーキングしたくなったのだと。
そこには未だ理性的形を残しつつも、作者の語ったようなある種「猛々しさ」の迫力が感じられ、共感を覚えた。
かつて筆者は中学生くらいの頃、親の故郷の諏訪湖畔を一体とした縄文文化に憧れ、黒曜石やそれから作られた矢じりを一人で拾い続けたことを思い出す。黒曜石の破片、矢じり……それらに触れ得た時、長い時を隔てて、その縄文人たちと手を触れ合えたような歓喜を体感したものだった。
山﨑さんの作品群は、芸術家としての洗練さを見せながら、原始の生命力を記して見せた感があり、迫力をこの館内に漲らせていたといえよう。

 藤下 覚さん。「表層」。まず明るい感じの作者と顔が合った(笑)、そこからすぐに表現力豊かな説明を受けられた。3.11の震災の体験は大きかったと。
そして表層に生きる文化と、その奥にあるものとの対比、表層と内面との差異を表現することに向かって行ったと。
作品は線の縞が微かに見えているものがまずあり、それに対した何通りかの表し方を作品に展開していると感じられた。表面は鉄板のように見えながら突然ライトが内側から光り、そこに太く短い稲妻のような線が表出される作品。
それから小生が「 聖なる壁 」と密かに名付けている宇フォーラム最奥の壁にある大作に目が行った。表層の三作、その間に一つ置きにおかれた斜めに閃光が見える作品群、これらはその内部をアクリル板を通して見せる、こちら側からの可視的な作品だ。
見える事、見せる事、見えてしまう事への、鮮烈に相反するベクトルを感じさせられた。作品そのものもシャープであり、ある種様式美さえ感じさせる。さらに、一つの作品中に、それら相反する意匠を組み入れたものもあり、展開に工夫が感じられた。
 
 最後に関 仁慈さん。「Unwritten law」。白い線の吹き付けられた鮮烈さが印象的だ。話を聴いている内、その素材がボンドなのだと分かった! その瞬間、作品が身近になるとともに作者の意匠、作品創作の原点が伝わってきたように思えた。
芸術は人間の行為の投影だ。己の内に何かが湧き出し生まれ、己の居場所である手近な環境からまず掴める素材を用い、半ば無意志的行為によって表出していく…(子どもの砂場あそびを見れば分かる)まさにその原点がある。
本人はジャコメッティが好きだという。その削ぎに削ぎ落していく、核心にせまる行為の表現が――。こちらはそれに共感しつつ、クリストを持ち出していた。あの巨大なモニュメントから議事堂から、島まで梱包してしまった芸術行為……その始まりは缶や石ころや…という身近な素材を包むことからだったのだ。
翻って作品を眺めると、ボンドを噴出させる行為は一回性のそして短時間の、ある意味刹那に近い集中の要るものだ。そのフロー行為こそに作品の成否がかかってくる。それはある種アニミズムに似て、途切れない行為なのだ(アフリカの仮面・彫像などを筆者は収集してきたが、それらはみな一木であり、そうでないと精霊が宿らないのだ)。そんな話も返しつつ、白の線描を見直すと、身近な素材、途切れない行為の中に命が見えてくる。ただ、作品として定着させるのは、そこから熟練した技法によってであり、さらにアクリル板に貼って見せる作品は光に当たり微妙にズレた影が壁に映っている……それも合わせた作品として、鑑賞者の目に供応するものとなっているのだ。

 拝見した翌々日、まだ生業としている不登校生徒(中学)訪問をし、勉強の合間に写した写真を何気なく見せていた。すると、工作の好きな彼はこんな感想を即座に返してくれた。順番はこの批評と同じだ。
「この作品は海のようだなあ、綺麗」「この形、ほら工事で穴掘りに使うやつに似てる(ツルハシと言いたかったようだ)」「この図形の線、かつこいい!」「身近なもの、ボンド使ったなんて良いなあ、わっかるなぁ~」と。