近藤 昌美 展 の記録

     近 藤 昌 美 展 

2021/9月2日(木)~ 9月19日(日)

      展 覧 会 に      

                    近 藤 昌 美

絵画とは何をもって観者に何ごとかを伝えることが出来るのか。
何ごととは、それ自体が非常に抽象的な問いかけだが、平易にいえば感動でもあり関心でもありまた作品を見ることで始まる思索でもある。
何をもって伝えるとはそれは形なのか色なのか構図構成なのか、もちろんその総体なのか。
そうした問い掛けに正解の答えはないはずだが、描く人として画布に向かう時の心的な技法的な行為性のまた歴史からのそれぞれの自由度は自分自身の拠り所でもあり、身体が宙に浮くような感覚を画布の前で持てた時、描く人としての自己と観者との境界が少し薄れたような錯覚を覚える。
私にとって絵を描くことは、結局その錯覚の周縁で自己と他者の両方の領野を行き来することなのかもしれない。

「虹の家」194×182

「3つの花と逆さ富士」 227×181

「花と頭骨2」 116×91

「花と頭骨」 227×181

作品部分

作品部分

「花」 53×38

「テーブルもしくはベッドと山」 194×162

「花の木」 194×162

「4つの花と大きなドクロ」194×162

「落ちる水」 227×181

「テーブルもしくはベッド」 227×181

会 場 の 様 子

※ 展覧会の様子がパノラマでご覧になれます























 

 

 

   近 藤 昌 美 展に   
                     宇フォーラム美術館 館長 平松朝彦

近藤昌美氏の今回の展示は二つある。モノクロの作品とカラフルな作品。さらに後者は金銀などを使った作品もあり多様だった。
モノクロは前衛の書を思わせる濃淡のある抽象画。その濃淡はかつての水墨画のように自然に任せたとおもえる諧調のあるものであることが目を引く。
一方、対照的にカラフルな作品は、油絵の具や不透明アクリルの、下地が透けない明確なエッジを際立たせた表現が特徴だ。
スタイルとしてはかつてのニューペインティングだと作者は言う。たしかにバイオレンス的で抽象表現的な画面と、唐突といえる具体的などくろ、花瓶、犬、ベッド、テーブルなどのオブジェはその特徴を暗示している。
しかしニューペインティングは、1980年代のムーブメント。
さらに部分的にみると白髪一雄のペインティングナイフを使った作品やドイツのゲルハルト・リヒターなども想起させる。
しかし今回の作品群はなにより前述のような金銀などのメタリックな新たな表現が特徴ともいえる。それはかつての日本美術の金色を多用した中世美術の絢爛豪華な世界でもあるが、むしろ東南アジアの一部にみられる特徴的なディープな混沌の世界だ。
さらに私はキラキラと輝くメタリックな粉末に、チベット僧によりつくられ、完成後にすぐ乱雑に壊されてしまう極彩色の砂曼陀羅を想起した。それは細かなディテールに現れ、全体の写真ではわかりにくく、さらに微細なきらめきは動画で見ないとわからないだろう。
そもそも日本の仏教はチベット仏教に通じている。チベット宗教の砂曼陀羅に現れるざわめく現生の世界と来世の複合した瞑想世界。私にはアメリカのアートと思わせて作者のグローバルな世界を感じる展覧会に思えた。
(作品の写真は天井照明の光源の関係で、光むらがあり、さらにメタリック画材の反射の特徴で正確に撮影することが困難であった。また部分写真はホームページの画面に合わせてあえて横向きとした。)

   浸透 ( osmosis ) 展を対話しつつ観られて
                                 八覚 正大

 今回も四人の作者たちとの「対話」ができた楽しさ、喜びに触発され書かせてもらうことにした。参加対話型美術鑑賞こそ、見る側の一方的主観的まなざしを超えて、作者とのダイアローグによって、〈いまここ〉で開かれた〈まなざし〉を通し、「生きてそこにある作品たち」に触れ得る得難い鑑賞法であると――最近は確信してきている。
 
 まず、話せたのが日比野 猛さんだった。「 浮遊する顔料のための交響曲 」というタイトルの付けられた作品。俯瞰したグランドピアノの形を四等分し、そこに木枠の縁を付け、内部に顔料を注ぎ込み、その入り混じる様相を作品化したとのこと。
今回の展覧会タイトルを体現した作品と言えよう。またそれは今回の自らを含めた四人の作家へのオマージュのようなものでもあると。
色の混じり合う美しい海のような象限、二項対立の象限、円形の形の見える象限、そして作家自身の、弧を幾重にも描くような作品……。
今回それらにはまだ乾いていない部分があり、ねじ釘がぽつりぽつりと刺さっていることにも気が付いた。作品の下には管が繋がっていて、さらにプラスティックのカップがたくさん置かれている。ねじ釘は抜くことができ、そこから絵の具が管を伝って流れカップに溜まる、それを他の象限に再利用することもできるのだと……。
コンパクトな小空間ながらも、それは地球の水分の循環を大気方向と地下へとの両方を捉えているのでは~と感じられた。
また顔料の入った瓶がずらっと鍵盤のように並べられてもいる。様々な色が混ぜ合わせられたようだが、総じて地球の表面のように青、緑、白……系の美しい表層を感じさせられた。
 
 それから、山﨑 康譽さん。「Marks u-2021」と題された作品群だ。黒い縁取りの楔が、上から下に垂直に撃ち込まれたような、迫力の感じられる絵画作品群だ。
作者はかつて、弥生文化的な丸みを帯びた穏やかな感触を体現した作品をつくり、自らもそう生きて来た……しかし、最近本質的には縄文的な性格だったのではと自ら気づき、このような形・痕跡をマーキングしたくなったのだと。
そこには未だ理性的形を残しつつも、作者の語ったようなある種「猛々しさ」の迫力が感じられ、共感を覚えた。
かつて筆者は中学生くらいの頃、親の故郷の諏訪湖畔を一体とした縄文文化に憧れ、黒曜石やそれから作られた矢じりを一人で拾い続けたことを思い出す。黒曜石の破片、矢じり……それらに触れ得た時、長い時を隔てて、その縄文人たちと手を触れ合えたような歓喜を体感したものだった。
山﨑さんの作品群は、芸術家としての洗練さを見せながら、原始の生命力を記して見せた感があり、迫力をこの館内に漲らせていたといえよう。

 藤下 覚さん。「表層」。まず明るい感じの作者と顔が合った(笑)、そこからすぐに表現力豊かな説明を受けられた。3.11の震災の体験は大きかったと。
そして表層に生きる文化と、その奥にあるものとの対比、表層と内面との差異を表現することに向かって行ったと。
作品は線の縞が微かに見えているものがまずあり、それに対した何通りかの表し方を作品に展開していると感じられた。表面は鉄板のように見えながら突然ライトが内側から光り、そこに太く短い稲妻のような線が表出される作品。
それから小生が「 聖なる壁 」と密かに名付けている宇フォーラム最奥の壁にある大作に目が行った。表層の三作、その間に一つ置きにおかれた斜めに閃光が見える作品群、これらはその内部をアクリル板を通して見せる、こちら側からの可視的な作品だ。
見える事、見せる事、見えてしまう事への、鮮烈に相反するベクトルを感じさせられた。作品そのものもシャープであり、ある種様式美さえ感じさせる。さらに、一つの作品中に、それら相反する意匠を組み入れたものもあり、展開に工夫が感じられた。
 
 最後に関 仁慈さん。「Unwritten law」。白い線の吹き付けられた鮮烈さが印象的だ。話を聴いている内、その素材がボンドなのだと分かった! その瞬間、作品が身近になるとともに作者の意匠、作品創作の原点が伝わってきたように思えた。
芸術は人間の行為の投影だ。己の内に何かが湧き出し生まれ、己の居場所である手近な環境からまず掴める素材を用い、半ば無意志的行為によって表出していく…(子どもの砂場あそびを見れば分かる)まさにその原点がある。
本人はジャコメッティが好きだという。その削ぎに削ぎ落していく、核心にせまる行為の表現が――。こちらはそれに共感しつつ、クリストを持ち出していた。あの巨大なモニュメントから議事堂から、島まで梱包してしまった芸術行為……その始まりは缶や石ころや…という身近な素材を包むことからだったのだ。
翻って作品を眺めると、ボンドを噴出させる行為は一回性のそして短時間の、ある意味刹那に近い集中の要るものだ。そのフロー行為こそに作品の成否がかかってくる。それはある種アニミズムに似て、途切れない行為なのだ(アフリカの仮面・彫像などを筆者は収集してきたが、それらはみな一木であり、そうでないと精霊が宿らないのだ)。そんな話も返しつつ、白の線描を見直すと、身近な素材、途切れない行為の中に命が見えてくる。ただ、作品として定着させるのは、そこから熟練した技法によってであり、さらにアクリル板に貼って見せる作品は光に当たり微妙にズレた影が壁に映っている……それも合わせた作品として、鑑賞者の目に供応するものとなっているのだ。

 拝見した翌々日、まだ生業としている不登校生徒(中学)訪問をし、勉強の合間に写した写真を何気なく見せていた。すると、工作の好きな彼はこんな感想を即座に返してくれた。順番はこの批評と同じだ。
「この作品は海のようだなあ、綺麗」「この形、ほら工事で穴掘りに使うやつに似てる(ツルハシと言いたかったようだ)」「この図形の線、かつこいい!」「身近なもの、ボンド使ったなんて良いなあ、わっかるなぁ~」と。