ART OF TERUKO

  •   炎
  •  隅田川 関東大震災
    この絵で父か亡くなくなった
  • 長岡国人2003

ニューヨークでの個展

 


 

    • ギリシャ神殿
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    平松輝子の芸術 
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  • 「伝統と革新」

  • 平松輝子は日本より海外で活躍した現代美術の画家であるが、彼女は常に日本的なるものを追及してきた。日本の伝統美術の正統的精神の系譜を引き継ぎながら、現代美術の最先端を目指した。伝統とは変わらないものではない。常に時代を踏まえて変化するもののはずだ。
    また、平松輝子の芸術は変幻自在である。1921年生まれであるが今までの87年の人生で絶えず新たなものにチャレンジし続けたからである。さらに付け加えるとその特徴の一つは、「美しい」ということである。そしてその美とは日本の美の系譜に沿った極めてオーソドックスなものであると同時に、誰もしなかった手法と表現による革新性が同居している。そのことは画を見れば容易にわかるが、本文は文章による解説をしたものである。
    ではそもそも日本の伝統文化の基本とは何なのか。日本の文化の端緒は紀元前の縄文時代や弥生時代にさかのぼる。
    日本は山が多く、そのため雨と水に恵まれた日本列島の風土は稲作に適していた。日本全国に稲作が広がるにつれ、人々の関心事は天候のこととなる。太陽の膨大なエネルギーは絶え間なく地上に降り注いで、山川草木を豊かに生育させる。動物もまた健康に生き続けることができる。
    地球上の生命の元は太陽であり、太陽の生成力によってすべての生命がはぐくまれることを人々は直感した。太陽は偉大である、という考え方は神道という宗教的な考え方に発展していった。

    「神道の二つの美学」

    神道によると、地上世界はことごとく「八百万の神」たちの支配下にある。人や動物はもちろん、山川草木から大自然の山や石まで形あるものはすべて神々の面影を宿す。自然は神々であるという自然観の成立は、おのずから人間が神々と共存することができる無上の喜びを人々に抱かせた。現前の自然を神々の姿に見立てる神話的自然観は、現実世界をさながら「神聖楽園」としてみなすことになる。
    さらに日本には四季があり、その自然の光景は特別に美しいものであった。
    いつしか日本の文化は何よりも「美しい」ことを重視することになる。「みやび」という言葉は絢爛豪華の世界を指すが、この「みやび」志向は平安時代に「大和絵」を生む。
    その「大和絵」の背景には金色や銀色が使われるが、これらはやはり現実世界が太陽の光に包まれているという幸福感を表している。
    江戸時代に「大和絵」は尾形光琳や俵谷宗達などの琳派の興隆において頂点を極めた。
    さらに神道のもう一つの特徴は、「清浄世界」という考え方にある。神道は穢れを嫌い、清いことを重視する。こうした白の「清浄」をうたう神道の日本に中国から仏教、禅宗が伝わった。
    神道の「清浄世界」は白を基本としながら、「わび・さび」「滅び」「幽玄」「もののあわれ」の美につながっていく。同時に禅や般若心経にみる無、空の考えは究極のミニマリズムを求める。山水水墨画は多くの余白部分を残すことで、「無」の芸術を体現すると同時に日本独自の「清浄世界」と共鳴した。
    さらに「無我」という禅の境地は、自然と人間の没主体的な主客未分の一体化をめざした。無の世界、禅の世界は絵でいえば白地に墨一色の山水画、さらに抽象性を高めた枯山水という手法であらわされた。
    枯山水で知られる龍安寺に敷き詰められた広大な白砂は海であると同時に、大自然という空間を想起させる抽象化された世界だ。
    このように日本の伝統美は、その本質において自然との共感がある。自然を「山水」と呼び親しみ、「花鳥風月」や「雪月花」を愛でることが日本の伝統美だった。
    そして「みやび」と「わび・さび」という対立した美学が神道にある。また万物に神の精神が宿るというアニミズム的な神道の世界が日本の芸術の基本である。平松輝子の作品も、そのことを一つの主要なテーマとしている。

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  • 「日本の近代美術と世界の美術」

    「大和絵」は尾形光琳や俵谷宗達などの琳派により究められ頂点に達していた。そもそもこのような日本美術の端緒は平安時代の建物と一体として考えられた建物の障壁画であり「装飾」であった。さらに浮世絵などの自由で装飾的な日本美術は、19世紀末の西洋の美術画家たち、例えばグスタフ・クリムトやヴァン・ゴッホなどにも影響を与えた。さらに20世紀になるともう一つの流れが始まる。
    フォービズムやキュビズムつまり、モダンアートが生まれるが、その本質は自由な造形だった。人が対象にとらわれず自由に形をつくるという創造性の時代になったのである。
    さらに戦後において日本文化である「わび・さび」はマーク・トビーやイブ・クラインなどの現代抽象画家にも大きな影響を与えた。
    さらに時代は進み抽象画、ポップアート、コンセプチュアルアートなどが生まれると同時に一つの問題が生まれはじめた。それは美しいことが美術の必要条件ではなくなったことである。
    そしていつの間にか絵画は美しさを失くし、芸術は独善的となった。
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  • 「若い頃の作品集」

    平松輝子の父はデザインの才能に恵まれ、1910年代の大正時代に、東京の先端都市であった浅草で店舗のディスプレイデザインを手掛けていた。輝子が生まれた時に、父はフランスに留学させると言ったと伝えられている。
    しかし輝子が2歳の時に関東大震災が起きて父は亡くなり、母とも別れて岡山の山村で祖父母に育てられた。その場所は当時、日本で一番文明的な都会であった浅草と対照的な地域だった。輝子は田舎の自然の中で育つとともに絵を独学で学んだ。そして田舎でいくつかの自製の作品集をつくる。その作品集には植物の図鑑のように多くの植物の写生画が掲載されているが、蝶、蜻蛉などの昆虫やネズミやカニなども写生の対象となっている。
    注目されるのは、それらが一般的な写生画ではないことだ。人間の目は見ようとする対象に自動的にピントが合ってしまう。そのために、すべての物を一様に詳細に書いてしまいがちになり、単なる平板な図録のようになってしまう。
    ところが、この作品集で書かれた植物は、焦点の合わない部分を意図的にぼかして描くことにより遠近感と動き、存在感を出している。
    この遠近感により、絵画に奥行きがと空気感が生まれるが、この空気感、立体感が後で述べるが輝子の特質である。
    また岡山の総社市は禅僧の雪舟が生まれた地である。その雪舟には有名な逸話がある。雪舟が子供のころ寺で悪戯したため罰として柱に縛られた。その時、流した涙で描いた鼠の絵が本物と見間違えられて人々を驚かせたというのだ。この画集に描かれたネズミもその逸話を彷彿とさせる。
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  • 「日本の抽象絵画のパイオニア」

    輝子は坂田一男に師事した。彼は抽象画のパイオニアであるにもかかわらず日本の美術史でほとんど無名である。
    彼は岡山出身で、1921年に32歳でパリに行きサロン・デ・チュイルリーで毎年発表をするまでになった。そして当時生まれたキュビズムに魅せられレジェの研究所に入所し次第に評価される。アカデミー・モデルンでは一時、体の弱かったレジェの代りに世界から集まった生徒達に教える助手という立場になった。ちなみにその時のもう一人の助手はオザンファンだった。
    坂田は1925年にパリで行われた世界初の前衛モダンアートの展覧会である「今日の芸術展(Art d’ Aujourd’ Hui)」に2点の作品を出品し、世界的、前衛美術家の一人となった。
    この展覧会には、ヨーロッパとアメリカを中心に20ヶ国以上の88人の作家が参加し、241点の作品が展示された。その作家の中にはアルプ・ブランクーシ、ドローネー、エルンスト、ミロ、モホリナギ、モンドリアン、オザンファン、ピカソ、レジェなど近代美術史の巨匠たちが参加した。
    「今日の芸術展」は当時の産業の発展とともに、人間の生活が封建的なものから自由なものに転換する時の到来を象徴する出来事だった。この展覧会に出品することの意味は、このような社会の変化を理解し、かつ運動に参加することであり、単に絵を展示することではなかった。当時多くの日本人の画家がパリに滞在していたがこの展覧会に参加できた東洋人は坂田だけであり、彼は世界の前衛画家の一人となった。
    坂田の若いパリ時代の作品は助手だったこともあり指導者のレジェに似た絵だったが、帰国後、作風は次第に完全な抽象画となり、東洋の静思な世界を表す彼独特の世界となった。
    具象絵画が見たままを描くことに対し、抽象画とは見えないもの、心、意識を描くものである。キュビズムはその移行期のものであり、その後の戦後の美術を席捲することになるコンテンポラリーアートの元となった。
    キュビズムと抽象画の両方を描いた作家は世界にあまり例がない。このような意味で坂田は近代美術史的にも重要な存在であった。
    新しい時代の美とは個人のオリジナリティーを求める人間の生き方の教えであり、坂田の主張「反権威主義」「反商業主義」「反アカデミズム」にたいして日本の画壇から反発があった。
    第二次世界大戦の前に坂田は帰国したが、岡山のような保守的な地方において、アバンギャルドを謳う坂田は、反体制派とみなされた。
    藤田嗣治が日本に戻ると軍に協力して絵を描いたこととは対照的だった。
    結局、彼は戦後の1950年にやっとアバンギャルドオカヤマ(A・G・O)を結成し、4回の展覧会を開いた。前衛とは最先端を行く、という事だが、名前であるAGOはその意味でもある。
    坂田のめざす前衛とは、最先端であり、誰の真似もしないことである。先生の真似をしろという従来の教えとは正反対だった。彼は自分のアトリエには誰もいれず、また弟子に対しても他人の作品が載っている美術雑誌をアトリエに置くことを禁じた。弟子たちに「昨日描いた絵は捨てて今日は新しい絵を描け」といったほどだ。輝子は、岡山に帰国した坂田を知り、師事すると同時に抽象画に転向し、A・G・Oの展覧会にすべて参加した。
    当時、短期間ながら坂田との150通以上の書簡が貴重な記録として残されている。彼は書簡で、輝子の作品はA・G・Oの展覧会の中で「最も優れて一頭地を抜いていた」と高く評価した。
    さらに亡くなる2年前の書簡には「僕余生イクバクも無いかも知れません。僕のバトンを受けついで奮闘して頂きたい」と書かれているが、これは病身で余命を悟った坂田の輝子への前衛精神を継いでほしいとの遺言でもあった。
    坂田は1956年に67歳で不遇のうちに生涯を閉じる。中央の美術界の権威に逆らったため逝去後、日本の近代・現代美術史において無視され地方の一画家にすぎない扱いとなった。
    京都国立近代美術館の館長である小倉忠夫は戦後間もなく、輝子あての書簡で「(坂田がキュビズムを経て東洋的深化があったとして坂田を評価する文章の後に続き)平松さんは、坂田さんの多くの弟子とちがって、亜流ではなく、真の精神的弟子であった」と書き、さらに「日本の美術は大勢として植民地化されたと見ています。・・西洋が日本、東洋を取り入れ、ヒントをえて独自の近代化をやっています。それを西洋のものとしてとり入れ、実は最も身近な伝統から学び、それを近代化する自覚も努力も日本人は払おうとしなかったようです」と書いた。
    小倉は、輝子が、日本の伝統文化の革新、近代化を目指していることを支援した。輝子は戦後、東京に出てきて、学校の美術教師をしながら展覧会をして作品を発表した。
    詩人でもあり戦前より前衛芸術の啓蒙活動をしていた瀧口修造に見いだされ、彼の企画で最先端の美術を発表していたタケミヤ画廊で個展の機会を与えてもらう。
    A・G・Oの頃の作品は油絵だったが次第に、墨とセメント、アルミや和紙のコラージュというミクストメディアの手法を取り入れたが、これも当時、先駆的な技法だった。日本において絵画は洋画と日本画に区分され、美術の大学において学科が異なる。輝子は美術の学校で教わらず、そうした区分には無頓着である。そして彼女の作品の多くは、そうした区分とは関係がない。

  • 「ニューヨークで個展」

    当時、美術の中心はパリからニューヨークに移っていた。輝子は教師をしながら1964年の12月に渡米し、ニューヨークのチェルシーに滞在し、日系の画家であるマイク・金光と知り合い友人となる。金光のアトリエは以前アメリカ抽象絵画の大御所であるデ・クーニングが使っていた。そのアトリエを借りて輝子が絵を描いた。
    そのころアメリカではリキテックスというアクリルの絵の具が生まれたばかりだった。それは日本画の伝統的な絵の具よりはるかに発色がよく、かつ透明感があった。水性のため偶発的なぼかしが生まれ、それらの色は複雑に混ざり合い無限の色相が生まれた。輝子は和紙をコラージュとして使ったが、発色が良いため和紙が美しく染まった。
    水性の絵の具を和紙に浸す手法は、油絵のようにすべて書き込む手法とは違い、そこには偶然性が潜む。それは日本の和紙と墨の関係と同様だ。墨で描いた模様のにじみやかすれ等にも偶然性が潜み、その部分に美が宿る。
    1966年1月に行われたマディソンストリートのAM SACHS GALLERYの展覧会は盛況だった。
    アクリル絵の具と和紙、墨によるカラフルなコラージュの作品は斬新なミクストメディアの作品である。アクリル絵の具を和紙に染めることによって生まれる絶妙のにじみの表現により、見たこともないカラフルな美しさをもっていた。 
    この展覧会についてNew York TIMESの批評家John Canadyが次のように批評を書き話題となる。「They could hardly be more ornamental, if they are nothing more than something good to look at, neither are they anything less.  New York Times. John Canady」またHerald Tribune. Art News. PARK EAST各紙でも評論家はその伝統的でオリエンタルな感性を高く評価した。
    それらの作品の構図は大胆で、抽象画でありながら俵屋宗達などの「大和絵」や、北斎や広重などの日本の美術を連想させた。
    日本の「みやび」をアメリカに提示し、かつ伝統的な「大和絵」は、新たな素材と技法で革新されたのである。
    作品1 「10,000の石の雨」素材キャンバス、油絵の具、アクリル絵の具、墨、コラージュの和紙によるミクストメディアの作品。
    輝子は引き続き、5月にロスアンゼルスのギャラリー66で展覧会をした。
    その後、日本に戻り、金箔、銀箔を使用した「みやびのやまと」を制作した。この作品の大胆な構図や色彩はさらに尾形光琳など琳派の作品を彷彿とさせる。
    このシリーズは1967年に東京の一番館ギャラリーの展覧会で発表された。日本アルプスなどの夕闇の雪景色など自然をモチーフとしたものなど様々だった。
    作品2 「みやびのやまと」素材キャンバス、墨、金箔、銀箔、アクリル絵の具と和紙によるコラージュ。大胆な構図で日本の自然を現した抽象画 4枚のパネルによる構成で琳派の屏風のようである。
    作品3 「穂高連峰」素材キャンバス、墨、アクリル絵の具と和紙によるコラージュ。山のシリーズの一つ。輝子の自然讃歌の表現である。
    1970年にアメリカでの実績を元にアメリカ文化センターで展覧会をすることになった。この展覧会には、ジョンソン・アメリカ大使、前述のデ・クーニング、小林行雄国立近代美術館館長、京都国立近代美術館館長小倉忠夫、山口長男、流政之、三木多聞、瀧口修造その他著名人が多数訪れ写真のように大盛況となった。
    一方、この頃、日本では公害の問題が起こり、環境問題が注目された。輝子も地球環境問題をテーマとして1971年に東京のPiner画廊において環境破壊をテーマとした200号のシリーズを発表した。自然環境を重視する考え方は、そもそも日本の文化そのものだった。
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  • 「ドイツで個展」

    1972年から約10年、ドイツのデュッセルドルフ近郊の小都市クレフェルドに滞在し、この地を基盤に多くの展覧会をした。まず取り組んだのはアメリカ時代とは正反対の禅の世界だった。
    ミニマリズムとして白、余白を追求し白地の布に墨で文字を描いた白のシリーズを制作した。それらの絵はかつての「大和絵」が文字と一体化していたことを思い出させる。
    輝子は日本の漢字や仮名文字を題材としていたが、それらの作品はいわゆる「書道」ではない。そもそも漢字は中国で生まれたが、物の形のイメージを具体的な形にしたものだ。
    輝子にはその文字の原点に戻り、新たに自分なりの文字を作り出す。文字は既成の字体ではなくなり、絵として画面の中に自由に配置される。こうして新たな書は文字から脱却して東洋独自の抽象画になった。字はなくなり書の既成の概念を破り革新した。
    それは形にこだわることなく無碍自在に自己のリズムを表現する芸術である。また同時に日本の伝統の系譜である「わび・さび」「禅」の世界を表すものだった。
    Caiser Wilhelm美術館の館長Gisele Fiedlerは一目見てその意味を理解した。この展覧会の様子はWest Deutsch Zeitung その他の新聞で取り上げられた。そして日本の伝統芸術が注目されるようになった。
    さらに当時のボンの総領事は輝子を支援して、ドイツ各地で展覧会の後援をした。
    作品4 「禅」素材布、墨、1977年のART INTERNATIONAL誌で1ページ大の写真が掲載された。
    作品5 「祈り」素材布、墨、これは抽象的な概念を形にした新たな文字であり絵である。
    作品6 「滔々」素材布、墨、川の水が流れる様を描いた。題はその音そのものである。
    輝子はこれらの作品を布に墨で描いた。和紙と違い滲みとかすれを自在に表現した。
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  • 「原形、黒の世界」

    1980年代に日本に帰り、和紙と墨の組み合わせに本格的に取り組む。
    作品7、8、9「原形シリーズ」素材和紙、墨によるミニマリズムな作品。
    作品10、11 「扉シリーズ」素材和紙、墨。
    白地に黒という墨の技法は形そのもののもつ美が強調される。さらにその形である墨の黒にこだわったのが作品7から10の黒のシリーズだ。
    黒のシリーズは「みやび」の世界や白の世界が動的な世界であったのとは違い、静の世界だ。そして墨の黒には無限の階調がある。さらにその特質を追い求めたのが「雪山」「石と水」「流氷」「雲と月」「天体」などである。それは和紙独特のにじみなどを生かした作品であるが、従来のような筆で描いたものではない独自の技法が駆使されている。その結果、墨で描かれていても単なる黒色ではなく、白やグレーなど微妙な階調の色合いが生まれ、意図的にはできない今まで見たこともないような作品がつくられた。
    1983年に当時東京で最先端のウエダ・ウェアハウスギャラリーで展覧会をした。それは日本の神道を題材とし、さらに抽象性を高めたものだった。
    最大240cm四方の大きな作品群が画廊である巨大な倉庫の空間にひときわ映えた。
    輝子はこの後、世界各国の古代文明発祥の地に興味をもち、文明の起源の地を訪ね歩いた。
    1987年には中国にわたり石窟の仏像遺跡を見て回り、それらを墨で表現し大阪で石窟シリーズの展覧会を行った。
    さらに1990年に東京の巨大なP3美術館で展覧会をしたが、それはエジプトの遺跡を題材としたものだった。ここにおける作品も幅約10m、高さ約3mの王家の谷ほか大作が並んだ。
    さらに1995年にハイデルベルガー・クンストフェアラインでギリシャ、エジプトなどの古代文明を題材とした。ギリシャの作品群は、掛け軸化されたが絵そのものも高さが2.7mあるが高い天井からつり下げられ、それらが広い会場に並んだ。その展示の中を歩く体験は、ギリシャの遺跡を歩く体験に他ならない。
    輝子は世界の神殿を訪ねたが、いずれも現在は荒涼とした風景が広がっているだけだった。
    かつては豊かな水があり、緑があり人々が暮らしていた場所である。栄華を誇る文明もいつか滅ぶ。都市の文化は自然を忘れ、自然を破壊してきた。これからの世界のあるべき文化の姿とは何か。そのモデルは過去の日本の文化にあるのではないかと輝子は考える。1990年に宇・フォーラムKV美術館を設立するが、「宇」は宇宙を意味する。
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  • 「太陽の光、金色と月の光、銀色の輝く世界」

    そしてこの頃から、金色や銀色を背景色として使った作品を描くことを始める。
    1994年、日本のギャラリー・ブロッケンでは波動シリーズの展覧会をした。水の波動は銀色、炎の波動は金色の紙に墨で描いたものだ。
    例えば水の波動という作品は、岩山を流れる水が光を反射する様を表現した。それは日本の豊かな水に象徴される自然を表す。
    輝子のテーマは光であるが、特に銀色は光そのものだ。銀は鏡のように絵の前の景色を映し出し、その見え方はその人の目の位置により違ってしまう。また、暗い場所に展示すれば黒になり、明るい場所に展示すれば白くなる。銀色の絵はこのように様々に光輝き変化する。銀色は扱うことが困難な色であり世の中に銀の絵画はほとんど存在しない。金色は現実世界を照らす太陽の光であり、銀色は月と銀河という宇宙の光を表す。さらにこれらの銀河は、単に空に多くの星がある、という模式的な絵ではない。
    インド哲学によるとこの宇宙は最初に一陣の風が吹いて始まったという。これらの銀河のテーマの作品にはこの風が吹いている。宇宙の始まりをテーマとしているからだ。
    かつて京都の龍安寺では白砂により大自然を表現した。ここにある銀河シリーズは小さな画面にダイナミックな宇宙の姿を表現している。
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  • 「世界の中の日本美」

    そもそも絵というものは、たとえば花の絵であれば、その花の一瞬の美を永遠に残したい、固定したいという一つの人間の欲望に根ざしている。
    西洋美術は物そのものを描こうとするが、日本の美術は、その存在する全体的な「場」を重要視し表現する。場とは空間であり物は単に存在するのではなく場の中に存在するのである。
    日本の美術において、余白が重要とされるが、余白は「場」をあらわすからである。
    輝子にとって四角の絵とは、その中に自然や宇宙を表現することに他ならなかった。
    輝子の作品は、色彩豊かなアメリカ時代、白のドイツ時代、黒の日本の時代、さらに最後に金色と銀色の時代に移っていった。それは世界で一番美しいカラフルな作品、世界で一番美しい白の作品、世界で一番美しい黒の作品をめざしたからだ。最後に、金、銀のシリーズで、日本の「わび・さび」と「みやび」は一つとなった。
    美術とは美しさを目指すことであり、芸術家はそれぞれ自分の美を開発しなくてはならない。
    輝子は日本の伝統的な墨や和紙を使っただけで伝統的などと主張したり、奇抜さや目新しさだけで安易に前衛などと言ったりしない。
    誰もしたことのない技法を開発したのは開発が目的ではなく、既存の手法では新たな美を表現できなかったからだ。日本の伝統美術は輝子によって、抽象化されると同時に比類ない美しさ、ダイナミックさが備わり新しいものに生まれ変わった。輝子は世界各地を旅するごとに自分の中の「日本」を発見することになった。
    多くの識者が日本的な美意識にたった現代美術の到来を期待し望んだ。
    その現代美術は輝子により実現された。しかし振り返ると「輝子の前に輝子はおらず、輝子の後にも輝子はいない」ことも残念ながら事実なのだ。




    • 坂田一男